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柳宗理さんを偲んで[前編・柳宗理さんの功績]

柳宗理さんを偲んで[前編・柳宗理さんの功績]

2012年3月31日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 先日の3月23日に六本木の国際文化会館で「故・柳宗理(むねみち)を偲ぶ会」が催された。私も関係者の一人として参加させていただいた。柳さんと関わりの深い参加者はとくに民藝関係者が多かったのが印象的だった。世界的なデザイナーを偲ぶ会だったが、しかし、その顔ぶれを見ると、民藝の何かしらの終焉を感じざるを得なかったのは私一人だったろうか?

民藝の終焉

 私はこの道に入って40年だが、民藝の世界で活躍の場を認めてくれたのが柳宗理さんだった。一般には「そうり」さんと呼ばれるが、私にとっては「むねみち」さん。日本民藝館の館長を務められていたことから「館長」と呼ぶ方が話をしやすい。
 なぜかというと柳宗理さんの館長時代の昭和53年(1978年)は私がこの仕事に入って民藝の世界に進んでいった時でもあり、館長の後ろ盾があったからこそ、この世界でずっと仕事をしてこられた。その恩恵はとても大きかった。館長との間にはさまざまな葛藤もあったけれど、冷静にみると、館長との付き合い、関わりから一面、私自身の民藝人生があったのだと思う。
 その後、私の大学の先生でもあった水尾比呂志さんが日本民藝協会の会長になられたけれども、柳宗悦(むねよし)先生が亡くなった時に民藝が終焉を迎えたと水尾さんはその40年ほど前、著書「美の終焉」の中で示唆されていた。

 そして柳宗悦先生から引き継いだ宗理さんが平成17年(2004年)に館長を辞された際、私はこう感じた。自分たちの世代の民藝もまた終焉したのではないかと。いみじくも、そのときから手仕事フォーラムを結成したことからも、その後の私自身は、宗悦先生や宗理さんと対比させていくような生き方をしていくのかもしれない。

柳宗理氏を偲ぶ会にて(写真提供/久野恵一)

セゾン美術館の展示

 現在、民藝が若者たちの間で何となく取り上げられてきて広がってきている。そうなると、民藝運動の創始者である柳宗悦について研究しようとする輩が出てくる。しかし、そうした人たちはあまりにも観念的な人ばかりで、よくよく見識が無ければ理解できない。
 それはともかく、ここ10年に民藝が若い人たちに広がり、とくに焼き物を中心に、暮らしの中に手仕事の物を取り入れていこうという機運はある意味、手仕事フォーラムの影響もあったと思うけれど、もとをただせば柳宗理さんの功績によるものだった。
 1999年、池袋の西武デパートにあったセゾン美術館が閉館するとき、最後の展示イベントとして柳宗理のデザイン回顧展が催された。この展示をきっかけに、柳宗理のデザインが脚光を浴びて徐々に広がり、柳の手がけた製品に感銘を受けた若者も増えていった。それはよい社会のひとつの方向ではと思った。当時の世相もあっただろうが、柳宗理さんのデザインを目ざとく取り上げた人はなかなかたいしたものだ。

セゾン美術館で催された柳宗理デザイン回顧展の目録

エリスさんの力

 とりわけビームスのバイヤーであるエリスさんの力が大きかったと思う。エリスさんはアパレル・バイヤーだが、工芸的なデザインにも興味があった。
 また、北欧のデザインそのものを彼は信奉していた。それを自分の仕事に取り込むというときに、たまたま日本にも同じようなデザインの方向を持った人として柳宗理にたどり着く。それで柳宗理さんにアプローチし、訪ねたくなって四谷の柳工業デザイン研究会の事務所を訪ねたそうだ。
 そうして柳宗理さんに会い大きな感銘を受け、たびたび訪れるようになる。 また、柳宗理さんは日本民藝館の館長ということを知り、日本民藝館にも足を運んでいく。
 そして、民藝館にあった蔵品を観て日本の民藝の神髄を見知り、彼自身の感性が高まり、民藝に興味を持つようになったのだった。
 エリスさんは民藝館のミュージアムショップが扱う物を買い、自分で使ってみると、とてもよかったという。それで、もっともっと民藝について知りたくなり、もっとよい物を観たいと柳宗理さんに相談した。すると、「もやい工藝」の久野を紹介された。
 それでエリスさんは、もやい工藝に来て、ここにある物をじっくり観ながら欲しい物を買っていく。その後、今度は日本民藝館展の初日に彼が並んでいて真っ先に出品された物を買っていくようになった。彼が買った物は全部といっていいほど私が出品した物だった。もやい工藝に来られてここで選んだ物と、さらに私が選んで民藝館展に出していた物をエリスさんは喜んで買っていたのである。そんなことで私もエリスさんとの関係が深まっていった。 

 彼はそうして民藝とのつながりができたのだが、北欧デザインの延長線上に柳宗理のデザインを観て、いろいろ紹介していく。

カリスマ性のある顔

 ビームスとのつながりが強い雑誌「BRUTUS」にも柳宗理が取り上げられた。その影響なのかどうかはわからないが、芸大時代に柳宗理さんのデザインに傾倒していたともいわれる西武美術館の学芸員担当者がセゾン美術館最後の大展示会を柳宗理展にしたと聞いた。
 当時、この展示会の告知広告が山手線の各車両の車内に貼ってあった。柳宗理さんの顔が大きく使われた広告だった。柳宗理さんの顔は父親の柳宗悦先生の顔に似て、とても品格があり、人を惹きつける力があった。私はさんざん悪態をつかれたのだけれど、なぜか憎めなかった。そんな柳宗理さんを批判はしても嫌いにはならなかったのはカリスマ性があったからなのだろう。
 そうした顔の魅力が広告を目にした人たちに伝わったのか、セゾン美術館には大変な数の来場者があった。
 そのレセプションのときに柳宗理さんは率直な人だから、こう言った。「自分はこれまでデザインの仕事をしてきたけれど、よいデザインはまったく売れない。変なデザインしか売れない。自分はずっと貧乏だ。ここには儲けているデザイナーがたくさん来ているけれど、自分の方がよっぽどよいデザインをしている」と。私はそこまで言わなくてもいいのではないかと思ったほどだが、いかにも柳宗理さんらしい挨拶で好感を持てた。おそらく参加者の皆さんも失笑しながらも、同じような思いを抱いているような場の雰囲気だった。
 当時は柳工業デザイン研究所が経済的に非常に逼迫していて大変な時期だったのだと思う。この展示会が大成功し、一気に柳デザインが注目を集めて、柳デザインの製品が広く販売されるようになっていった。
 メディアもさまざまに取り上げてくれた。それで注文に追われるくらい仕事が増えていったのである。
 展示会の成功による流れから徐々に若者の間で柳デザインの評価と関心が高まっていった。また、ビームスをはじめとしたセレクトショップなど民藝店とは異なる店で柳デザインの製品を販売するようになった。雑誌でも柳デザインの特集が組まれ、さらに広がっていった。
 そういう意味ではエリスさんとビームスの功績が大きいと思う。

晩年の柳宗理さんと私(写真/久野恵一)

2001年2月号「CASA BRUTUS」では丸ごと一冊、柳宗理特集が組まれた

機械から手仕事へ

 私自身の学生時代当時に学んだ教授に向井周太郎さんがいた。向井さんはドイツ・ウルム造形大学で学び、その縁で柳宗理さんにずいぶん教わった方でもあり、柳宗理さんをとても尊敬されていた。向井さんが教えるドイツのクラフト運動やバウハウスについても私は自分なりに知識も持っていた。しかし、その当時の社会運動にのめりこんでいたため、ドイツのクラフト運動がナチスとの関わりの中で広まっていったことに疑問を抱き、否定的な立場をとっていたのであった。
 そのため、学生時代にはすでに著名であった宗理さんのことはまったく知らなかったし、興味も無かった。昭和20年代(1950年代)後半の高度成長期に突入する直前の頃、日本各地でさまざまな工業製品が生まれたのだが、オート三輪などをはじめ、さまざまな工業・工芸のデザインを柳宗理さんがおこない、日本のデザインにおける先駆者であることも後に知った。
 セゾン美術館の展覧会では、その当時のデザイン製品が50年ほど経過して化石のように会場に現れてきたという感じがした。
 社会の若い人たちの中に新たな見識が必要な時代になってきてもいて、そういう中で頼りにしたい物がないかという気分のときに柳宗理さんの昔からあったデザインが何か新鮮に見えたのだと思う。この展覧会を機に柳宗理詣でが始まり、柳宗理さんが日本民藝館の館長であることから、民藝館に人が流れてくるようになった。その流れがさらに加速して、若い人が当たり前のように日本民藝館を知るようになる。

 同時に研究者と称する若い人たちを含めて、そういったものに便乗しようとする人たちも出てきた。取り上げて哲学や思想などから柳宗悦先生のところまで行き着き、民藝を解読しようとする人が出てくるわけだ。その人たちによって誤った民藝について誤って伝えられてくるということは、逆に言えばそれだけ民藝が知れ渡ってきたということ。そういう意味では柳宗理さんをきっかけとして民藝のささやかなブームが再び興ったということは大きな功績だったと思う。柳宗理デザインを通じて民藝を知り、民藝のおもしろさを知って「機械から手仕事へ」という若者が増えてきたのだ。

日本民藝館創設50周年の記念碑。これも柳宗理デザイン

鳥取の民窯、中井窯の縁抜き染め分け皿。幅広の縁は柳宗理による意匠。
こうした伝統とモダンさがミックスした焼き物から民藝に関心を持つようになった若者は多い

アノニマスデザイン

 柳宗理さんは一貫して人間の暮らしのあり方を常に問われてきた。柳宗理さんがデザインした工業製品や橋はすべて人間の暮らしにとても便利で機能的で嫌味の無いシンプルな物である。柳宗理さんのとても好きな言葉「アノニマスデザイン」、「アンコンシャス・ビューティ」(無意識の美)を基本とするデザインなのだ。デザインに機能性を持たせ、誰でも使える物を広範に広めていくということ。
 これを大切にしていくことは社会的な功績になると思う。柳宗理さん自身のデザインの善し悪しはともかく、デザインによって工業社会のなかに少しは人間的な温かさを感じるような物を広げていった。これは大きな功績だと思う。

 ただ、私がそこでひとつ言いたいのは、デザイナーによる製品類が高価ということ。経済的な負担をともなうことはもちろん理解できるが、社会性を普遍的に追求するのであれば、やはり一般の人たちが買える価格にするのが役割ではないだろうか。手仕事の物と遜色ないくらい工業製品の物が高いということは考えてもらわないといけないことだと私は思うのである。

柳宗理デザインのステンレス製品。ヤカンは使いこまれて黒く変色したもの