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Kuno×Kunoの手仕事良品

柳宗理さんを偲んで[中編・日本民藝館館長になる]

柳宗理さんを偲んで[中編・日本民藝館館長になる]

2012年4月25日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 私が日本民藝館に出入りするようになったのは昭和50年頃からのこと。それは朝鮮文化を日本に紹介され、柳宗悦先生の民藝運動の発端となった浅川巧(たくみ)さんの奥さんである咲(さく)さんと娘さんの園絵(そのえ)さんの母娘が柳宗悦先生以降の民藝館を守り、相次いで亡くなられた直後の時期だった。
 浅川母娘が民藝館におられた頃は民藝館に入ったとたんに「ここが民藝館だ」と感じられる静かな空間で、美しいと感じるように活け花が自然に活けられていた。俗に言う約束事のようにつくった活け花ではなくて、花、草、木が李朝の大きな壺にそっと普通に入っているのを目にすると、落ち着いて健やかな気持ちになったものだ。そこには温かさを帯びた空気がいつも流れていたのが印象的だった。
 ちょうどその頃、私は民藝館に見学に行き始めた時で、たびたび見学しているうちに民藝館の専務理事であった故・田中豊太郎翁から声を掛けられたのが縁であった。同じ田中性だが、田中洋子(現・擁子)さんという職員がおられ、各地のつくり手との縁が深いとも聞いたが、彼女から私が各地を歩いていることをどこから聞いたらしく、急速に親しくなっていった。
 それで田中さんはずいぶん私の面倒を見てくれた。柳宗理さんが民藝館の館長になる昭和52年までの2年間で田中さんを通じて濱田庄司のことをよく聞き、あるいは民藝の大先生の話もつぶさに聞いてもいた。その頃の濱田先生は病床に伏せていて東京に出てくることはほとんど無かった。
 当時の細かいことは、まだ私も若かったのでよく覚えていないが、民藝館で展示の手伝いをさせてもらったことは私にとってプラスのことだった。

柳宗理新館長の登場

 そうこうしているうちに、民藝館の館長が濱田先生から変わるという話になって、同時に私は松本民藝家具創始者の池田三四郎さんとも縁があったので、人事に関する話が聞こえてきてはいたが、あまり内部的なことに興味はなく、民藝館に足を運んでいた。民藝館の皆さんは濱田先生の薫陶を受けた方が主だったこともあり、民藝館の中のいわば保守的な部分に自分は入り込んでいた。そこに柳宗理さんが新館長として入ってきたのである。
 その時に宗理さんのことを何となく思い出した。工業デザイン製品が機械によるものなので、当時、手仕事にこだわっていたことで民藝とは異質の人だと。 宗理さんは若い頃、柳宗悦先生とは全く反対側の方にいて、父親に対してとても抵抗した人だとも聞いていた。

 そんなこともあって民藝館の空気としては宗理さんが館長になるということは、異星人が中に入ってくるという感じで、最初から館全体に喜んで迎え入れるという空気は無かったのだ。私も先入観を持って柳宗理さんを見ていたものだから、そんな人が館長になったら困るのではないかと思っていた。

ジープで登場!

 そこに宗理さんが入って来られた。40年近く前のことだったから宗理さんもまだ若かった。50歳台の後半ぐらいだったろうか。ジープで来て、夏だったから短パンとランニングシャツ姿でいきなり民藝館に入って来たのでみんなびっくりしてしまった。「お父さんは品格があるのに、なんて品の無い」と。
 当時は田中玲子さんという方が民藝館におられた。染織家の柳悦孝(よしたか)さんと親しく、柳宗理さんと戦前の沖縄調査旅行に同行され、沖縄織物の研究をされた著名な方がご主人だった。しかし、ご主人は早くして亡くなられ、浅川母娘亡き後の民藝館を守っておられた。非常に麗人で、品のいい方で、宗理さんがお父さんのご子息ということもあってとても親しみをもって迎え入れられた。それで宗理さんは民藝館に来ると玲子さんを頼りにされていた。
 それでも宗理さんは元気がよかったから、なんとか民藝館を改革してやろうと、さまざまなことに着手した。しかし、それまでの旧体制の50年間の組織を崩すなど簡単ではない。人間を崩すのではなく、総体の心理的な面を壊すことなどできないのである。
 就任早々の宗理さんは日本民藝館展の審査の際、これまでの民藝では取り入れられない物を選んだりして、柳宗悦先生の時代を知っている古い審査員の方々から失笑を買っていた。宗理さんもプライドの高い人だから、その当時、ますます逆方向に向かおうとしていった。

雑誌「民藝」を刷新

 このように大変な思いをしながらも、宗理さんは次から次へと改革の手を打っていった。宗理さんは館長と同時に、民藝協会の会長にもなられたので、雑誌「民藝」も手がけられ、これからは自分が民藝の中心なのだという気持ちも強かったと思う。雑誌「民藝」をそれまでのような古い内容ではなく、こんなことでは民藝は駄目になると刷新しようと、表紙のディレクションと記事の編集に関わっていった。その時、宗理さんは今の手仕事なんかよくないじゃないかと盛んに言っていたことを覚えている。くだらない物ばかり手でつくられているとはっきりと口にしていたのだ。意識したっていい物なんかできるわけはないのだと。これからは機械時代なのだと叫ばれていた。
 ならば、館長自身は何を選べるのかという話になったら、「生きている工芸」として雑誌「民藝」の表紙裏に自身で推薦する工業製品をどんどん掲載していった。そこには竹刀まで掲載した。これはアンコンシャス・ビューティ、アノニマスデザイン。必要のためにつくられた物というわけだ。他にもジープを出してみたり、野球のボールを出してみたり、バットを出したりとこれまでの民藝に生きてきた人たちにとっては衝撃的であった。
 おかげで民藝協会の当時の柳宗悦時代につながっていた人たちは半減した。この際だから民藝とはさよならという人がいっぱい出てきた。今までは日本民藝協会が民藝館を支えてきたのだけれど、その後は逆に民藝館が日本民藝協会を支えるような感じになっていく。これはある意味で大改革というのではなくて、大変容をトップがしてしまったと大きな問題となった。
 しかし、それなりに柳宗理さんを支えなくてはと古い方々もおられた。とくに芹沢C介さん、外村吉之介さんは自分たちが本当にお世話になり、心の支えでもあった柳宗悦さんの長男であるので、そういったものには目をつぶって新しいことをしてもらいたいと応援した。とくに芹沢C介は非常に協力的だった。
 今よくよく考えてみれば、時代の流れという「民藝」の本質そのものを既に失っていたという認識が私どもにあったのだと思うのである。芹沢の先見性の見識というものを改めて感じる。

カリスマ性のある顔

 この頃、展示替えも含めて館職員の皆さんとより親しくなって民藝館に出入りするようになり、宗理さんと顔を合わせたりして何となく挨拶するようになった。宗理さんは憎めない顔立ちで、好感を持てる人なのだった。私は好き嫌いが激しい人間なのだが、柳宗理さんは人間的に魅力ある人だなと思っていた。古い人たちも文句を言いたくても、あの顔を見ると宗悦先生を思い出すということを皆さんが言うくらいだから、そういうカリスマ性が宗理さんの風貌にはあるのだろう。

はじめての会話

 その後、昭和54年に水尾比呂志さんが宗理さんのサポート役となり、民藝館の常務理事として入られた。それまでは村岡景夫(かげお)さんという宗理さんの家庭教師がおられたのだけど、村岡さんがご高齢となったため、水尾さんが迎え入れられたのだった。たまたま私の妻が水尾さんの研究室で働き、民藝館に一緒に連れて来られていて、私と知り合い結婚することになった。
 ちょうどその前後に私は宗理さんといろいろな所で顔を合わせた。最初に会ったのは昭和53年くらいだっただろうか、それ以前にも民藝館で顔を合わせてはいたものの、話をすることは無かった。そのときは盛岡の光原社に私がたまたま行っていたら、ちょうど宗理さんが光原社から招かれて漆工房で新たなデザインをしてくれないかと頼まれたのだった。光原社としては民藝館が新しい館長となり、何か景気づけのように役に立ちたいという考えがあったのだろう。
 宗理さんは呼ばれて行き、さて何をデザインしようかというときに、ハートのマークなど、私たちが驚くというか困ったようなものをつくってきた。それを見て私がゲラゲラ笑ったら宗理さんは「君はよく見る顔だけど、どうだ!?」と聞いてきた。「これは随分安易なものですね」と答えると、「君なんか若いから何もわかっていないんだ!」と宗理さんは怒った。私が宗理さんと会話を交わしたのは、このときがはじめてだった。

 その後、「これから帰る」と宗理さんが言うので、当時は新幹線もなく、けっこう時間がかかるのに「どうやって帰るのですか?」と聞くと、「車で帰るんだよー」と宗理さん。外を見ると愛車のワーゲンが停めてあった。当時は坂道の駐車場に車を止めるときは気を利かせてギアをバックに入れておくのだが、館長はそのことを知らなくて、エンジンをかけてそのままアクセルを踏んでしまったためすごい勢いで後進してしまった。ぶつかる寸前にまでいき、宗理さんは狼狽していた。私がまたゲラゲラ笑って「なんだ、先生は意外とたいしたことないな」と言ったら、また宗理さんは憮然としてしまったが、動揺しながら一人東京へ車を運転して帰って行かれた。その当時の東北道は全線つながっておらず、お一人での運転には感心したものだった。その後、車好きであることを知り、話がずいぶん弾んだものだった。

ニックネーム

 盛岡から戻った後に民藝館へたまたま出かけたら、館長とまた偶然に会った。唐突に、宗理さんは「お前のことはこれから桃太郎と呼ぶことにするからな」と言った。「何ですか? 桃太郎とは?」と尋ねると「君は桃太郎なんだよ。おい、桃太郎、桃太郎」と宗理さん。
 桃太郎と名付けた意味はさっぱりわからず、だいたいは嫌なニックネームが多かったが、宗理さんはニックネームをつけるのが上手な人だった。私の場合、あだ名をつけられたことで私は宗理さんとかえって親しくなった。
 その翌年くらいに出雲の民藝館で私のカゴザルの会があり、この会の最中に雑誌「民藝」の取材で宗理さんが出雲民藝館の取材に来られた。その頃の宗理さんは自身を歓迎する所ならばどこにでも行った。それだけ反対的な人たちが多かった時代だった。いち早く宗理さんに賛同したのが小鹿田のある、今は無い日田民藝協会会長の寺川泰郎(たいろう)さんだった。または出西窯の多々納弘光さんや光原社など会津本郷の宗像(むなかた)窯など数少ない信奉者の所へ足繁く通うにようになるのである。

 それで、出雲民藝館も特集しようとカメラマンを連れてきた宗理さん。カメラマンに細かく注意し、懸命に指示されている宗理さんを初めて仕事上で見ると、改めて感心するようになった。

柳家に仕える

 私が結婚することになったとき、宗理さんからずいぶん冷やかされたものだった。そんなことで私はますます宗理さんに接近していった。私はその頃、民藝館で尽力されていた鈴木繁男さんとも懇意にさせていただいていた。
 とくに鈴木繁男さんは書生的立場で柳家に奉公されてもいた。ということは柳家の長男である宗理さんとは歳がほとんど同じでも、同格にはならないのだ。
 それでも、鈴木繁男さんは生涯、柳家に仕えるという気持ちがあるから宗理さんから何を言われようとも信奉して、支えなくてはいけないという立場に徹していた。私が鈴木繁男さんに呼ばれて、こう言われたこともあった。
「君の仕事から見れば、みっちゃん(宗理さん)のやっていることなんかは快く思えないだろう。それは私も同じだ。だけども、民藝館は柳(宗悦)がつくったものなんだ。だから柳の意思で続けなくてはいけない。自分が生きている限りはみっちゃんを支えて柳家を守る。民藝は柳に始まり、柳で終わった。終生、民藝館の館長は柳宗悦以外にはない。しかし、柳家の人がその後を継ぐということならば、柳の薫陶を継続させるのが自分の役割だ」と。さらにこう続けた。
 「君は僕を慕ってきていることは嬉しいけれども、自分はそれ以上に柳を中心に考えている。基本に据えて生きていくのだから、それを知った上で僕について来てくれ。そして、もし何かがあったら守ってくれ。みっちゃんはみんなが誤解しているけれど、とてもいい人間なんだ。ちゃんとした道筋をもっている。ただ本人が気づいていないだけなんだ。その感性は父親譲りで類い希なものを持っているんだから、それは信用していくべきだと。ただ、やっていることはハチャメチャだと君は思うかもしれないけれど、その中にはちゃんとした基本的な姿勢があるんだぞ」と。私はこの言葉を克明に覚えている。

誤解

 小鹿田焼の坂本茂木さんは濱田庄司先生をはじめ旧民藝関係の方々を信奉していたし、宗理さんが民藝館館長になった際、民藝館内部の人たちから盛んに悪口を聞き、すっかり洗脳されて宗理さんへの抵抗の気持ちを抱いていた。
 宗理さんが館長になられてすぐの頃、小鹿田が大事な窯だからと視察に行った際、くだんの寺川さんが案内した。そのとき、小鹿田の各窯元は好意的に迎えたが、茂木さんだけは突っ張ったらしい。茂木さんが民藝館展に出品する物を見せてくれと頼むと、あえて見せなかったのだ。
 それで宗理さんはかなりするどい人なので誤解した。「あいつは俺にわざと見せなかった」と。茂木さんはそうではなく、面倒くさかっただけだったのだ。私も茂木さんの性格をみてきたから、きっとそうだと思う。誰かが来たからといっても、いちいち、どうぞ見てくださいなどとする人ではない。
 しかし、宗理さんは「坂本茂木は俺を嫌い」という認識をインプットして、小鹿田に俺のことが嫌いな奴がいると言い始めた。
 そんな時に、私の結婚式披露宴に参加するために茂木さんは上京。主賓である宗理さんが祝いの場で「僕はこの桃太郎が好きなんだよ」と盛んに話し、出席者が皆大笑いするなか、茂木さんが四番目に挨拶をした。そして挨拶代わりに替え歌をつくり、歌い始めた。この歌の内容は宗理さんの私に対しての祝辞の言葉と反対のことを揶揄したものだった。
「久野を桃太郎と呼ぶが・・・・・・・あだ名は嫌な館長が名付け親付け親」と歌の最後で結んだ。
 宗理さんは「あいつは俺のことが嫌いなんだ、あいつは嫌な奴なんだ」と隣席の水尾比呂志さんに言った。私も水尾さんも大笑いして、他の人も皆笑っていた。怒っていたのは宗理さんひとりのみだったが、率直でてらいのない、それでいてユーモア的な話し方から、皆さんは逆に宗理さんに好感を持つようになっていく。祝宴に招いた人たちの多くはつくり手たちや私がお世話になっている民藝の先達たちだった。その方々がより宗理さんに親近感を持っていくきっかけになったと、その後、私は知った。

 それから私が小鹿田に行くたびに館長は「またあの嫌な奴の所に会いに行くのか」と言った。しかし、民藝館展に私が必ず出品する茂木さんの焼き物はダントツによいから、物のよさと実力は理解していたのに違いないのだが・・・。

昭和54年、私の結婚式の際、新宿の民芸割烹料理店「八雲」で披露宴を開いた。
左端が「桃太郎の私」。右側に立つのが主賓の宗理さん。
司会を務めてくれたのが出西窯の多々納弘光さん。
他にも水尾比呂志さん、柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)さん、
当時の編組品のいちばんの傾倒者であり柳宗悦の信奉者の相馬貞三(そうまていぞう)さん、
私の友人である蟻川紘直さん(この連載の第34回で紹介)、「光原社」の及川隆二さん、坂本茂木さんに出席していただいた。
私にとっての美の師匠である二人、松本民藝家具の創始者・池田三四郎さんと鈴木繁男さんも呼びたかったのが、
都合が悪く来られなかった (写真/久野恵一)

行きたくない民藝の生産地

 そうこうして、私があちこちに出かけていくことがわかると、宗理さんに「おい、たまには俺も連れて行けよ」と言われ、一緒に九州を回ったこともあった。その時に小鹿田に行きたいでしょと聞くと、「あいつ(茂木さん)がいるから」と嫌がる。それでも鈴木繁男さんからのアドバイスで、民藝館がここまでこられたのは小鹿田があったからだと説き伏せられ、私もそのことを盛んに訴えた。さらに、「茂木さんは決して館長のことが嫌いなのではないんです」と言うと、「いや、あいつは俺のことが嫌いなんだ」と宗理さん。「そうじゃないんです。ああいうタイプでおもしろい人だから会って話してみてください」と私。「話したくない」と宗理さんは頑なだったが、私が繰り返し説得するものだから「じゃあ、君がそんなに言うのなら会ってみるか」ということに。
 「高いウイスキーを持って行ってあいつに飲ませるからな」と言うので、高いウイスキーなんか、茂木さんは何を飲んでも一緒ですよと私は笑った。
「君はねぇ、おいしいものがわかっていなんだよ」と宗理さん。「何を飲んでもわからない人が世の中にはいるんです」と言っても理解しない。
 茂木さんには館長が行くよというと「おうっ!」と悠然とした態度で、いっこうに館長のことが好かんわけじゃないとか、俺はどうだってかまわないとか突っ張る。そこで、私は今後のことを考えたら一緒になりなさいよと諭した。それで、宗理さんが小鹿田を見学することになり、私が連れて行った。

 前日の夜、茂木さんの家に行ってご馳走になったのだが、宗理さんはやおらウイスキーを出して手打ち式をやった。翌日はお昼をはさんで、そば茶屋で窯元が全員集まった。そのときに、坂本晴蔵さんという元組合長が、「館長さんは偉いかもしれないが、ここでは酒も飲みきらんもんはつまらん」と、酒の飲めない宗理さんに対して平気で言った。宗理さんはまた気を悪くしたが、茂木さんと友好的になれたことが嬉しかったらしく、その後の4日間の旅では機嫌がよかったのを覚えている。

旅の道中で

 私は鈴木繁男さんとも旅行しているけれども、宗理さんとの旅はまたまったく違う意味でのおもしろさがあった。
 高速道路を走っていると館長は歩道橋の形に眼を向け、サービスエリアに入ると、その出入口の構成を見たり、走っている車を指しながら工業デザインのポイントを話された。私は父親の宗悦先生との確執について聞きたかったので、ずいぶん聞き出した。
 宗悦先生が亡くなった昭和36年5月3日、宗理さんはちょうどドイツのアウトバーンを走っていたそうだ。そこでワーゲンを運転していて、車がひっくり返るほどの大事故を起こしたという。車はぺちゃんこになったが、宗理さんはなんとも無かったのだとか。それでワーゲンの力を知ったというが、その事故が起きたのはちょうど父親が亡くなった時間ではないかとも言っていた。
 我孫子で暮らしていた時代、母親が勉強や演奏会で出かけているときに寂しくて自分が泣くと、宗悦先生に「うるさい!」と納屋の中に連れていかれて柱に縛り付けられたこともあったと言われた。随分厳しい父親だったし、自己中心的な性格だったとも語られた。私が「館長もそうじゃないですか?」と言うと「君は僕のことをわかっていないんだよ」と言った。 
 そういう会話を交わしながら道中は楽しかった。竹細工のつくり手のところへ連れていっても、何か感じるものがあるらしくて私とは違う物を選んでみたり、またそういった物に対して評価してみたり、感性的にやはり優れたものを持っておられた。そうして3度ほど一緒に各地を旅した。
 感心したことの一つにこんなことがあった。民藝協会の全国大会があったりすると、宿は館長のためにきちんとした部屋が手配されているのが通常なのだが、たまたま倉敷のとき、館長は民藝協会の一員であるから他のメンバーと雑魚寝になってしまった。専務理事の四本貴資(よつもとたかし)先生が「ナンバー2はともかく、ナンバー1の部屋くらい一人部屋にすべきだ」と怒ったけれど、館長は全然気にすることなかった。

 宗理さんは食べるものや宿のよい悪いはいっさい気にもしない人だと感じた。そういう意味では宗悦先生とは違った。宗悦先生は貴族の出身だけれども、宗理さんはそういう面はいっさいなかった。

平成4年(1992年)、民藝協会の仙台市博物館での集まりで。
宗理さんと四本さん、宮城県民藝協会会長の故・門脇允元(いんげん)さん、
ホームスパンの蟻川夫妻、楢岡窯の小松哲郎さんらが写っている
(写真/久野恵一)