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Kuno×Kunoの手仕事良品

柳宗理さんを偲んで[後編・民藝を継いだ人]

柳宗理さんを偲んで[後編・民藝を継いだ人]

2012年4月25日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

デザイナーの視点

 デザイナーに共通する視点なのだろう。柳宗理さんは当初、驚異的な造形物、感覚的に生々しい、とりわけ原始的な物を賞賛された。その物の中でもフォーカスされる部分があって、自分の眼の位置から直線的に物を見て、その物が訴える部分に眼の焦点が合っていた。
 たとえばアフリカの住まい、壺や甕、土着の人のエネルギーが内面から吹き出してくる神秘的な物。そういうエネルギッシュな物に宗理さんは非常に反応した。私たちのようにずっと民藝の中で育ってきた人間は、美しさよりも凄さを感じるし、造形的な物の良さもわかる。しかし、それはあくまでも日本の伝統的な物を見てきた上での視点。その物の凄さや良さがわかりつつも、宗理さんと私たちでは明快に見方が異なるのだ。
 当初、宗理さんは日本民藝館展で私たちにとってはとんでもない物を館長賞に選んだ。それは織部釉の苔緑色の、透明感のある大皿だった。平坦な大皿に緑釉(織部釉)を分厚く掛けて毒々しいくらいの緑色をした皿で、ガス窯で焼いているため非常に発色が良かった。私たちは嫌悪感を感じる物なのだけれども、宗理さんはこれに非常に反応して賞を与えた。
 また、楢岡窯の大きな鉢に賞を与えたこともあった。これも私たちから言わせれば、造形的なかたちが今一歩だった。縁のつくりも甘かったし、なぜこのような弱々しい物をと思った。しかし、海鼠釉を大胆に掛けて、たまたまとても良いし焼き上がりだったということ。そして、縁に二重掛けした藁釉が溶け不足で溜まって、下に垂れていた。そういう驚異を感ずるような物に賞を与えたのだ。

 沖縄の山田真萬が藍の釉薬で大胆な唐草を描いて、豪快に指描きした唐草文様の大皿にも驚異を感じて「すごい、すごい」と唸っていた。

山田真萬が線

描きした唐草文様の焼き物

物の見方の変化

 雑誌「民藝」においての宗理さんの写真の選び方や撮り方の指示には見方の違いが顕著に現れていた。物を美しいと感じる宗悦先生と私たちの見方に対して、凄いと感じるデザイナーとしての見方とは全く違うことがよくわかったのだ。
 一緒に行動していても、近代的な造形物、大きな橋や飛行機、車といった物の他、必然的に出来上がってくる物、防護壁などへもデザイン的なものを加えていきたいと反応されていた。とくに浜名湖に架かるシンプルなラインの橋を好まれた。新幹線で名古屋に同行した際、私に「良いだろう、良いだろう」と何度も話しかけてきたことが印象的だった。この橋は基本的に直線的なのだが、ある部分は最低限、曲線を描いていて、橋脚を支える鋼鉄の綱があまり無い点に惹かれていた。上から見るのではなくて、下から見上げた時のラインの見え方にものすごく反応されていたのが、傍にいてつぶさに見て取れたのだった。
ところがその後、ある時から急に雑誌「民藝」のグラフに出される写真の撮り方が変わってきた。カメラマンにレンズの位置、アングルや高さを事細かに指示するそうだが、館長就任当初は物を見上げたり、眼と同じ高さから見ていくような撮り方だった。それが、やや斜めの上から物を見て、全体像をやわらかく見ていく物の見方へと変わっていくのだと思えた。
 つまり、一点だけでなく全体に焦点が当たるような物の見方。ということはいつの間にか宗悦先生や私たちの視点に近づいてきていたのである。
 視点の変化は日本民藝館展での物の選び方にも現れた。宗理さんが出品作品の中で良いと思う物を選び、雑誌「民藝」に写真を載せていたが、いつも民窯系の物が多かった。私が出品する民窯系の小鹿田、沖縄、龍門司の焼き物、とりわけ小鹿田の物を一番多く選ばれていたし、龍門司を好まれていた。ところがそれらを掲載した翌年も再掲載したり、何年か前に大きく掲載した焼き物まで再び載せようとした。
 同じ物を掲載してはいけないと普通の人は思うし、関係者もそう考えた。しかし、民藝館展の理念のひとつに、繰り返しつくられる物が不変であれば、その物の良さがいつまでも保たれていくということがある。民藝のひとつの視点で言えば、良い仕事の物が不変で平常無事でいくということが正しいという。これが民藝館展の本来のあり方なのだ。今のように奇抜な物を取り上げたり、釉薬の調子がおもしろかったとか、仕事を精進しているからとか、そういうレベルではなくて、いわゆる普通に物を見た時に、平常であって、それでいて、その中の光り輝くものを取り上げるのが、民藝館展の本来の物の見方なのだ。   
 また、私は竹製品や樹皮細工といった編組品を民藝館展に出品していたのだが、これも宗理さんは選び、掲載してくれた。昭和40年代の頃までは竹製品がグラフに載ることはほとんど無かった。当時の審査員の方々には竹製品があまりに実用品すぎる民具であり、つくり手たちが工藝家ではないからという視点があったのだろう。作家活動したり、自分の仕事を問い詰めていこうという人と編組品をつくる無名の職人とを一緒に並べることをためらい、あまり取り上げなかった。ところが宗理さんはそういったことはいっさいおかまいなし。誰がつくろうが、どこの馬の骨だろうが、そういったことは一切関係ないとよく言っていた。自分の眼で良いと思った物は選んだ。それが同じ物であれば良いではないかと基本的に考え、人の言うことに耳を貸さなかった。そして、鈴木繁男さんや岡村吉右衞門さんの同世代の先生が賛同していった。そのことからも館長になってしばらくしてから視点が変化していったことが伺えると思う。自分が思うようにやろうというのではなく、自分が思うような工業製品に眼を当てていこうという考えを持ってはじめは日本民藝館に入ってきたのだけれど、いつの間にか民藝が持っている根っこの部分を感覚的に捉え、その良さを自分の体の中に取り込んでいき、無意識のうちに、少しずつ民藝館の良さを体で会得していったのだと思う。

 それに、宗理さんの絶対的な強さは民藝館の館長というより、柳という一文字に尽きると思う。宗理さんがどんなに批判されようとも、柳という字が民藝人にとっては最大の力なのだ。

小鹿田焼の坂本浩二君が30歳の時に日本民藝館展館長賞を受賞した。
選んだ宗理さんとともに、民藝館にて
(写真/久野恵一)

ユニクロに感心

 宗理さんは、私の着ている服をわりと褒めてくれた。「君はなかなかセンスがいいよ」と。私は服の着こなしのセンスが良いなどとは夢にも思っていないし、安物でいいと思っている。服は車で行きやすいこともあって、藤沢のイトーヨーカドーばかりで買っていた。デパートは値段が高いし、模様やデザインなど装飾が過度で、自分には合わない。私の体型にはシンプルなものが良いとなんとなくわかっていたので、レナウンのシンプルライフの服が好きで、手頃な価格の、無地の落ち着いた色のシャツをいつも着ていた。また、ズボンもジーパンが似合わないので、紺系や黒系の普通の物で体型に合う物を選んでいた。
 衣食住で言うと私の場合は、住食衣の順で、衣の方はお金をかけなくて全然駄目だと思っていた。これは民藝の人に共通すること。物を買う人ばかりなので、衣を一番蔑み、食はおいしいものが好きだけど、どうしても住まい空間を充実させようと、住食衣の優先順位になってしまう。そうすると一番お金を使いたくないのが服なのだ。だから着たきり雀になることもある。
 しかし、そんな私とは対極にあり、衣類に興味を持つ宗理さんと専務理事で染色工藝家の四本さんが、わりと褒めてくれるので、そうなのかなと思った。宗理さんも四本さんも無地が良いという考えを持っていた。それからデザイナーがあえてつくるものを好まなかった。宗理さんが着ているものも、よく見るとシンプルなものが多い。それに何を着ても似合う。男から見てもなかなか格好良い人だと思う。着こなし方が上手いのだ。祝賀会では急にお色直しで真っ白なスーツに着替えて、真ん中に赤いリボンを付けて登場したりと洒落ていた。
 宗理さんもまた、高級品ではなくて、安くて良い服を選ぶところがあったようだ。とくにイタリアの製品を好んでいた。また、靴に力点を置かれていた。宗理さんが私の家に来ると、登山靴のようながっちりした良い靴を履かれていて、家に上がるのに不便そうだから「先生、日本ではこういう靴は合いませんよ。面倒くさいでしょ?」と言うと、「良い靴を履くんだから、面倒でいいんだよー。君なんかは太っているから屈むのは嫌うだろうけれど、僕は平気なんだよ」と宗理さん。
 ユニクロが出始めて話題になった頃、宗理さんはユニクロという名前やあの赤いロゴマークに反応されていた。ユニクロがどういうものかではなくて、言葉にパッと反応するのだ。それで「ユニクロに行ってみよう」と言い始めた。店に行くと、安くてシンプルな物が多かったから、ずいぶん好んで、とくに夏はアンダーシャツを自分で買われていた。たまたま用があって四谷の事務所に行くと、民藝館にいる時と違って、いつもラフな格好をしているので、横縞のストライプの半袖シャツを着ていた。「どうだい久野君、これどう思うかね?」と聞いてきたので「お似合いですね」と答えると「ユニクロで買ったんだよ」と嬉しそうな顔をして、三宅一生の服はこれと同じような物でも、何10倍の値段もするんだよーとニコニコしていた。
 その後、彼のパーティに呼ばれた時には実際にこのシャツを着て行き、本人の前で「どうだいこれ、ユニクロで買ったぞーと」言うと、三宅さんはニヤニヤしているだけで、言葉は出なかったそうだ。
 「安くても良い物はいっぱいあるんだよー」と宗理さん。そういう感覚的なところが宗理さんにはあった。私がとても感心するのは、日常の物にはまったく無頓着だし、高級品とかに眼が行くのではなくて、あらゆる物に対して眼が動くということ。これはやはり勉強になると思う。

手仕事品とデザイン

 あらゆる物に目が感応した宗理さんだが、一番反応するのは工業製品で、工藝的な物より工業製品にとくに眼が行かれるのだなと感じた。
 柳事務所の製品で一番売れるのは、デパートのデザインコーナーにある、彼がデザインした小さな生活用品だと思う。そういった物のデザインの根っこは、民藝の物からずいぶん取っていることがよくわかった。お酒の酒販組合で大量に配布された、高台の高いグラスの盃(さかずき)があるが、これは朝鮮の馬上盃(ばじょうはい)から形を取った物だと思う。関越自動車道の大清水方面の独特なトンネル入口のかたちはメキシコの帽子のかたちと色を取り入れたに違いない。
 宗理さんはネパール、ブータン、インドなど各地を回り、とくにイタリアの物は大好きで、デザインに随分利用したと本人からも聞いた。
 濱田庄司、河井寛次郎といった方々、とくに濱田先生は日本の各地の民窯の優れた技や文様や技法を自分の仕事に取り入れた。その中から唐津の土質を選び、唐津の土質と酷似した陶土が採れる益子に窯を築いたのだと聞いたことがある。むろん、立地条件は当然のことである。
 濱田先生は熊本・小代焼の流し掛けから自分のものとした。それらは朝鮮から日本に入って来て凝縮された文化を自分の技法に置き換えて、スタイルをつくっていったのだった。
 柄杓の流し掛けにしても、柄杓に穴を開けてみたりして工夫を凝らし、流し掛けを多種多様に変化させる技を駆使されていた。
 また、河井寛次郎にいたっては中国の漢時代の頃の造形物、あるいは西洋、東欧のガラスなどの工藝品や、他品種の金属質の物の造形を自分の型の仕事に置き換えたりしている。どんなに優れた作家でもお手本というものがあるのだ。
 そういう意味では宗理さんのお手本は日本や世界の手仕事の物だったし、造形物は彼の先生であるシャルロット・ペリアンの仕事を日本的に変化させて取り入れていると私はみる。あの有名なバタフライチェアもそうだし、ブーメランの形をしたテーブルや椅子、棚類はペリアンのかたちに共通するものがあり、その中から汲み取って自分のものに持っていったのではないだろうか。
 宗理さんがディレクションされた中井窯の縁抜きの染め分け皿や、縁を鉄釉で黒くしてコバルトを掛けた出西窯の器もルーツは苗代川の伏せ合わせの皿で、その中に日本の独特的なものを入れている。苗代川の焼き物には高台が無いのに、高台を付けて、持ちやすさという機能性を加えていったのだ。

柳宗理さんが造形に惹かれていたカゴたち

「もやい工藝」の入口に架けてあるドジョウカゴ。
茨城県真壁地区でつくられている
(このホームページの記事「手仕事調査・関東地方 真壁竹細工」を参照)

津和野のビク
(このホームページの連載記事、
フォーラムの選ぶ・この逸品「鮎ビク2点」を参照)

千葉の万漁(ばんりょう)カゴ
(この連載記事・第63回「南房総の竹カゴ」を参照)

新旧の商(あきない)バラ。独特な縁の巻き方と底の網代編みの模様に注目(第37回「平戸島の竹細工」を参照)

樹皮に惹かれる

 館長時代晩年の平成10年くらいだったか、秋田県で民藝協会の大会に行くから案内して欲しいと宗理さんに頼まれたので、車で一緒にあちこちを回った。私との旅が宗理さんは楽しみで仕方がないのだ。
 以前、この記事の第8回(http://teshigoto.jp/serial_report/kuno/vol8.html)で紹介した、角館でイタヤ細工を手がける佐藤定雄さん、智香さん夫妻の工房にお連れすると、ちょうどクルミなど樹皮を素材にする仕事を始めた頃だった。工房には剥いた皮が転がっていて、宗理さんはつくったカゴよりも皮の方に眼がいって「この皮がものすごい!」と騒ぎだした。私はつくられた工藝品に眼がいくのだけれども、宗理さんは材料そのものに眼と心が奪われ「これが欲しい」と言う。それで、どうぞ持って行ってくださいということになった。樹皮を剥いた生々しさ、表皮の木目に惹かれた宗理さんは、その皮を民藝館の館長室に貼り付けて嬉しそうにしていた。
 宗理さんとの旅ではこんなこともあった。出雲での民藝協会全国大会のときだ。石見神楽(いわみかぐら)の踊りを観ていた宗理さんが急に興奮して、いきなり私に飛びかかってきた。さらに首を絞めてきたりして、みんなは呆気に取られていた。私はその時、何かしら自分の本質を見抜かれたのかと思ったものだ。

クルミの樹皮を編み組みした佐藤さんのカゴ。
この樹皮の野趣あふれる迫力と風情に宗理さんは魅せられていた

鳥取の民藝発展のために

 宗理さんについて語り始めると話は尽きないのだが、私と中井窯、そして宗理さんの関わりはぜひ伝えておきたい。
 中井窯の坂本章(あきら)君についてはこの連載記事でも述べているし(第28回と29回にて)、暮しの手帖の「ものことノート」などにも書いた。章君を育てるために私が行き、しかし、それでもなかなか販売が広がらなかった。
 そこで、販売を広げるためのひとつの手段として宗理さんに頼ることを考えた。戦後間もなく、宗理さんは鳥取の民藝運動家、吉田璋也さんに仕事を依頼されて、彼のもとを訪ねている。大先生の坊ちゃんということで、有名なデザイナーの力を借りてみようと吉田さんは親のような気持ちで関わったのだろう。
 吉田さんはデザイナーという言葉がたぶん嫌いだったと思うし、内心では快くは思っていなかったかもしれない。
 宗理さんは牛ノ戸窯の後、中井窯に行き、章君の父親の坂本實男(ちかお)さんに指導をして仕事をしてもらった。實男さんはとても素朴で、実直な人で、あれをつくれ、これをつくれと指示する宗理さんが言う通りに働いたそうだ。この時、宗理さんは図面を随分書いたという。そもそもは私が中井窯を指導してきていたので、宗理さんはどんなふうに指導したのか知りたくて、實男さんに図面を見せてもらった。そして、図面が2枚あったので、宗理さんに見せるからと1枚を借りたのだった。
 その2年前のことだ。中井窯に指導に行った2ヶ月後、私は初めて章君の焼き物を日本民藝館展に出品した。そして、鳥取のたくみ工藝店が費用を出して、章君を館展の講評会に出席させた。
 宗理さんは眼をずいぶん輝かせて驚かれていた。以前、中井窯で制作指導したことが、心の中で大きな拠り所になっているからだろう。その心理を私は見て取り、宗理さんに力を貸していただけると確信した。それで、宗理さんに図面を見せると、当時のことを思い出したが、あの人独特の表現で素直に喜ばないのだ。「君はわざとこれを持って来たのだろう?」とか「僕の書いたのを君が真似して書いたんじゃないか?」と嫌なことを言う。宗理さんは嬉しいと必ず逆のことを言う人だった。しかし、眼は輝いていたので、これはきっと乗ってくるなと思って「先生、中井窯に行ってみない?」と投げかけた。
 そんなこと、できるわけないと戸惑いながらも、行きたい気持ちが強く、とうとう訪れることになってしまったのだ。
                      ●
 平成10年から12年にかけて、鳥取民藝美術館の一日の入館者は2〜3人くらいだった。それでも私は展示会を催して、鳥取の民藝関係者の心をひとつにしようと試みた。しかし、入館者数が少ないと勢いが無い。それで、ちょうど柳宗理ブームが始まった時だったので、人を呼ぶために宗理さんの企画展を思い切ってやってみようじゃないかと考えたのだった。
 宗理さんに鳥取民藝美術館で、以前、セゾン美術館で催した展示をやって欲しいとお願いすると、むしろ私の立場を心配してくれた。だが、懇請すると、本心は展示会を開きたい気持ちが強く、快諾してくれた。
 セゾン美術館に展示した物は軽井沢の別荘や倉庫に散らばっていて、どこに何があるのかわからない状態だった。それで柳事務所のスタッフに集めてきてもらい、トラック1台に載せて鳥取民藝美術館に展示した。宗理さんも当然、招かれて大レセプションを開いた。宗理さんは「こんな展示ができるなんて思ってもいなかったよ」と、とても喜び、その後、各地でおこなわれている柳宗理展につながっていったのである。
 この柳宗理展の企画は私の発案から始まったもので、その成果が著しく良かったことで、今もこのような展示が盛んになっていった。同時に、自身が興味を持つ中井窯で宗理さんが制作指導する方向に持って行ったのだった。
 このように、もともとは鳥取民藝美術館をどうしようかと思案したのが始まりだった。その後、宗理さんによって中井窯の指導が始まったが、基本的には私が当初、中井窯で指導してつくられた物を、宗理さんが改良した。それによって、中井窯の物が柳宗理ディレクションシリーズとして世に出ていった。また、鳥取の民藝が息を吹き返したようにいわれているのも、そこが原点なのである。

龍門司焼が好き

 宗理さんは時々、もやい工藝に足を運んでくださった。来られるのは夕方が多かった。その時間帯は電灯の白色灯の色で物がきれいに見えるのである。
 私の店で扱う物の中でも、とくに龍門司焼が好きだった。飴釉に青を流したり、黒釉に白を流す風情を観て「すごい!」と言っていた。父親の宗悦さんをはじめ、私たちはそのような物は「美しい」と称えるのだが、宗理さんは「美しい」とは口にしない。「すごい、すごい!」と叫んだ。
 宗理さんは龍門司の流し掛けをとても好んでいたが、つくりの勢いのよさとして坂本茂木さんと柳瀬朝夫さんの小鹿田焼にも魅了されてもいた。とくに茂木さんの力強い、肩が怒ったかのようなつくりの物に感じていたようだ。

坂本茂木さんが龍門司焼に赴いた際に制作した焼き物

骨壺

 平成5年に「手仕事の日本」の大展示会を催した後、宗理さんをはじめ、関わった中心メンバーと忘年会をした際、何がきっかけだったか、柳宗悦先生のお墓は今どうなっていますか?という話が持ち上がった。その際、骨壺についての問答が続いた。
 宗理さんは自身は龍門司焼の骨壺に入りたいという気持ちを私に伝え、あの流し掛けが好みであることを言われた。そのつくりについては小鹿田の坂本茂木が好きなのだが、彼が宗理さんを嫌っていると思っていた。そこで、私が茂木さんに龍門司でつくることを提案し、実行したのだった。
 それで、私が茂木さんにつくってみるか?と聞くと、ちょうどその頃、茂木さんは「水上勉の骨壺100選」のひとつをつくることを依頼されていた時で、酒を毎日飲ませることで同意してくれた。そして、龍門司で仕事に取り掛かり始めると、当初は形態の違いに戸惑った。
 龍門司焼のロクロは全部、電動ロクロの上、右回転だった。小鹿田は蹴りロクロで左回転なのだ。回転が逆なのも「参ったな」と困っていた。ところが、左回転にするのも調整すれば可能だというので、そうしてもらった。それから、茂木さんが回し始めると、龍門司のつくり手たちの電動ロクロの回転より速度が速く、みるみるうちにつくっていく。そのつくりを見て、龍門司の連中はみんな驚いてしまった。小鹿田の熟練陶工の蹴りロクロはいたって速いのであることがその時、私はわかった。こうして、龍門司では一週間ほど滞在し、制作してもらったのだった。
 そこで、とにかく骨壺を25個つくって、焼いてもらうことにした。釉薬を掛けるのは川原にまかせて、削りまでを茂木さんがおこなった。そうして出来上がった骨壺には白だけの物もあったし、黒だけの物もあった。黒に白流し、黒に青流し、飴に青流し、三彩流し、白に青流し、白に飴流しなど全部で8種類ほど制作した。
 この骨壺は「もやい工藝」の10周年に合わせて、店でお世話になった人に分けた。同時に、柳宗理さんに頼まれていたので店まで来ていただき、選んでもらった。飴に青流しを自分用に、奥様の文子(ふみこ)さんに黒の白流しを選ばれた。
 それからしばらくして私が宗理さんのお宅に伺うことがあり、居間に通されると、宗悦先生、兼子夫人の写真が入った厨子が置かれ、前にこの2つの骨壺が並べられていた。宗理さんは父母の骨を入れてあるとその時は言われたが、まともに真に受けた私が茂木さんにこのことを話すと涙を浮かべて喜んだものだった。
 しかし、その後、出西窯でずいぶん前に宗理さんがデザインして、父母の名前入り骨壺をつくり、実際はその骨壺に納められていたことを知る。

 文子さんはそんな事情は全く知らず、後になって聞いたのだとか。遺言通り、この壺に遺骨を入れたそうだ。つい先日、茂木さんに事実を話すと、どちらにしても光栄だと喜んでいた。

龍門司焼で制作している坂本茂木さん。素早い仕事を見て、皆が驚いている(写真/久野恵一)

茂木さんが龍門司で釉薬掛けをしているところ(写真/久野恵一)

骨壺をつくる茂木さん。成形時はこれだけの大きさの壺が、焼き上がると小さくなってしまう(写真/久野恵一)

黒に白流しの骨壺

民藝本来のよさを伝えていく

 柳宗悦という個人によってつくられた日本民藝館と、民藝の今までの流れは宗理さんが亡くなられたことで柳家の正統な流れは全て断ち切られたと思った。
 宗理さんが館長になった30年前の昭和52年(1977年)を境にして民藝が大きく変わったことは確かだ。昔のままのものを伝えていたら、おそらく民藝はつぶれていただろうけれども、宗理さんが館長になったことで外界の空気が入ってきた。そうして外国とのつながりが出てくると、いろいろなことが広がってきた。当時失いかけてきた民藝の存立が復活し、20年経って開花して、今また新たな民藝のあり方が広がってきている。
 むろん、時代の変化、対外的にも日本文化が知られていったことも大きな要因である。
 そういう意味ではやはり柳家によって民藝が守られてきたのは確かだ。柳宗悦個人の眼識力、見識力、あるいは哲学者としての力によって民藝が継続し、さらに柳宗理によって社会の変動で埋没し、消え去られたものが再び世に現れ、広がっていったということ。
 私が師事した鈴木繁男さんは「常に日本民藝館の館長は柳宗悦ただ一人であり、柳家がそれを継いだのは当然だ。だから自分は何があろうとも柳を守るのだ」と言われた。そして私に「この道に入った以上、その意思は常日頃、心に持っていて欲しい」とも諭された。さまざまな事象があったが、私は何とかこの道を変わらないで歩んで来られたと確信している。
 しかし、この流れが柳宗理の死によって、これから収束していくのではないかと危惧している。だからこそ、私たちがその流れを断ち切らずに継続させ、宗悦先生のつくり出した民藝の本来の良さを広げていかなくてはならない。普遍的な物の見方の美しさを伝え、広めていくのは大事なことだからだ。
 宗理さんの資料を先日、探していた時、平成8年の日本民藝夏期学校豊田会場の冊子が出てきた。当時はまだご存命であった本多静雄さん(当時の名古屋民藝協会会長)が、大会について本にしてまとめられていたのだ。
 この大会の講師として水尾先生と宗理さん、本多さんが話された内容がこれには記載されていた。当時の参加者123名の名簿も載っているが、地元の協会を除くと、全国から来た人はわずか40数名。しかもその人たちのほとんどが今はおられない。ということは、とても良い話をされているのに、現在、それを知っている人はほとんどいないということだ。それは残念なので何かにまとめて文章を紹介したいと思う。

平成8年の日本民藝夏期学校豊田会場の冊子と、これに掲載された「民藝とデザイン」の文章

※最後に・・・
6月1日に日本民藝協会の機関誌「民藝」6月号が刊行される。特集は柳宗理前会長を偲ぶもので、各方面の民藝関係者の追悼文が掲載されるそうだ。本来ならば、私はその書き手のひとりに選ばれるはずだが、ここ10年はどういうわけか全く登用されていないのが現実だ。ぜひ、皆さんにはこの「民藝」6月号を購読して、私の3回にわたるレポートと比較していただきたい。