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宮内謙一さんの大物づくり

宮内謙一さんの大物づくり

2012年6月28日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

この連載記事の第15回で宮内謙一さんの石見焼・平皿を紹介した。その際、宮内さんと出会ういきさつは述べたが、十分に彼の仕事を語れていなかった。宮内さんは陶工として貴重な職人である。技術は素晴らしいし、大物づくりに関しては日本で随一のつくり手だ。今後も彼のような職人は出てこないかもしれないが、残すべき手仕事であると考え、前回とは違う側面で宮内さんを紹介したいと思う。

大物づくりの職人

 宮内さんは島根県石見地方、石見焼の窯元、嶋田窯の三男として生まれた。長男は嶋田春男さんといい、数年前に亡くなられたのだが、春男さんも大物づくりでは大変優れたつくり手として名を馳せた人だった。謙一さんは婿養子として宮内家に入った。宮内家も昔ながらの半洞甕(はんどうがめ)という大甕をつくる窯だった。

当時の石見地方、温泉津町から浜田にかけての数10kmの海岸線には多くの窯が並んでいた。それらの窯の中には来待釉の釉薬瓦で知られる石州(せきしゅう)瓦専門の窯や、粗陶器である半洞甕や大きな容器をつくる大窯が大半であった。耐火度が高く、酸にも塩にも強く、容器として最も適していた半磁器用の陶土が地域で採れたからだった。この土は焼き締まると磁化して割れにくくなる特質があった。そのため、一時期は日本中にこの壷・甕類が出荷された。手仕事による量産品で価格も安いため、速く均一につくる技術を持つ職人がずいぶん存在していたのである。そうした職人の一人が宮内さんだった。

 婿養子になる頃、宮内さんは九州の小石原焼に回り職人として出かけていき、石見で培った技術をもとにして随分大きな物をつくったそうだ。小石原焼は小鹿田焼の兄窯とも呼ばれ、小鹿田と似た製品をつくるが、昔から大物の制作を回り職人に依頼し、窯元は売りに歩いて営業に専念した。回り職人のなかに石見から優れた職人が小石原で大物をつくってきたという歴史があったのだが、もともとは朝鮮から伝えられた技術によってつくられた窯。そのため、ロクロの回転ならびにつくり方も朝鮮にならったものだった。当初は俗に言う紐巻きづくりにより、大物を制作していたのだが、後に石見の職人から玉づくりという巨大な土の塊1個を引き上げてつくるという技術がもたらされ、現在の小石原は玉づくりが主流だ。この玉づくりはやがて小鹿田にも波及し、あるいは石見の職人の技術が九州北部の窯元にも入っていく。このように石見と小石原は密接な関係があった。

大きな甕が並ぶ石州宮内窯

大物づくりをする宮内謙一さん。気楽につきあえるようで人間的にも温かみがある。
石見には気骨がある人が多く、彼は頑固さと丁寧さと気立ての良さを持った、優れたつくり手でもある
(撮影:鈴木修司)

時代の流れ

 宮内さんが婿入りした宮内窯は半洞甕という水や醤油を入れる容器づくりをしていた。小さな物でも一斗(10升=18kg)の容量から2〜4石(こく)という540kgぐらいの大容量の甕をロクロでひいてつくっていた。ところが昭和30年を境にして日本中に上下水道が発達し、水甕や肥料を入れる甕が不要となり、一気に甕づくりが止まってしまった。それでも、塩や酸に強い特性を活かして漬け物甕や味噌甕づくりはずっと続いてきた。それもやがてプラスチック製品が蔓延していくと売れない状況になり、周辺の窯元が消えていった。そんな厳しい状況下でも何とか生き残ったのが嶋田窯であり、宮内窯だった。

 同じ県内の出雲の出西、布志名系各窯までは民藝品づくりが盛んになってきたため、技術に長けた嶋田窯、嶋田春男さんも見習って、石見の陶土で小物づくりを始めた。陶土は近在から容易に採れるような地域だったため原料費と価格を低く抑えられた。しかし、大物づくりの伝統はありながら、日常雑器づくりの伝統が無かったため、この窯はいわゆる民芸陶器づくりが中心になってしまった。宮内さんも右にならって小物づくりを始めるが、当時は何でも売れた時代だったため、2つの窯元は隆盛だった。

 宮内さんの窯はとくに大物づくりが得意だったこともあり、小鹿田や小石原の大物を入手しにくい日本各地の民藝店が、同じような文様の大物を宮内さんに盛んにつくらせた。ある時は東京中の民藝店に小石原風な傘立てをたくさん納めたこともあった。丈夫で割れにくく、しかも小石原の1/3〜1/4の価格で販売していたため、こぞって店が注文したのだ。

 私は当初からそれが嫌で、宮内さんの窯とは接触しなかったし、行く気にもならなかった。当時は大きな登り窯を薪で焚くには、薪の原料がだんだん高くなってできなくなり、嶋田窯と宮内窯は大きなガス窯を導入して量産していった。しかし、ガス窯を導入できず、大物づくりから転化できなかったいくつかの窯は廃業してしまった。

2011年のもやい工藝創設40周年の際、
全国の付き合いのあるつくり手に新しい注文をしようと考えた時、
宮内さんに依頼した火鉢。
かたちはオーソドックスだが、釉薬はこちらで指定した

小物づくりに転化

 20年前程前から、宮内さんの大物づくりも陰りが見えてきた。住宅事情の変化により、大きな甕や壺類は必要とされなくなっていったのだ。とくに一時は長細い甕が傘立てとしてずいぶん売れたのに、置き場所が無くなり売れなくなった。また、家の周辺に睡蓮鉢を置いて、睡蓮を育てて楽しむということも無くなり、一気にそれまで売れていた傘立てと睡蓮鉢が売れなくなった。

 どの窯元も抱えていた職人を辞めさせて、家族労働で細々と仕事をおこなうようになった。その頃、私は日本民藝協会の手仕事調査の一環として関わる際、石見に調査に出かけた。石見で昔つくられていた、骨格のある仕事の物を再現させたくて、嶋田さんと宮内さんに接触し始めた。とくに宮内さんは量産ができるし、素直に受ける性質の職人的な立場の窯だったので注文しやすかった。そこで、何を注文しようかと思案していたとき、浜田市郊外にある吉田屋という窯元が仕事を辞めるということだったので訪ねてみた。そして、その窯に変わった片口が放り投げられていたのを見つけて、譲ってもらった。片口の内側がすり鉢になっていて、これがなかなか良いのだ。すり鉢型片口、あるいは片口型すり鉢ともいうような物。来待釉が掛けられた鉄色の地味な色だったが、かたちがとても良く、割れにくそうだったので、宮内さんに見せると、「これは昔、目片口といって、ずいぶんつくった物だ」という。今でも簡単に、いくらでも、驚くほどの安価でつくれるとのことだったので、それならとオリジナルの目片口を発注した。

 この目片口を媒介にして、私は宮内さんの窯との関わりが深まっていった。主力製品の目片口の他、連載第15回でも取り上げた平皿の制作も依頼した。さらに破損しにくいという特性を活かしたさまざまな物を注文していくようになったのだった。宮内さんは職人として長く生きてきたし、婿養子なので、とにかく朝から晩まで仕事をする働き蜂だ。しかも、多様な物をつくれる技術をきちんと持った人だったので、かなり助かっている。

特別注文した目片口。茶色い来待釉の物(通常の物)の他、白掛けと黒釉を掛けた物がある

残すべき技術

 私は宮内さんの窯を訪ねるたびに家のまわりに放り出されている巨大な甕が気になった。それを時々、つくっているところも見かけた。私たちはこの巨大な甕をもしつくってもらって店に持ち込んでも店に置く場所も無いので、注文はできない。ただ、この技術は何とか残さなければ、もうつくれる人はいないのではないかと思う。大物づくりの技術をみんなに見せるべきだと私たちの集まりに宮内さんを呼んで実演してもらったこともあったし、そのつくりの凄さを見せたこともあった。

 宮内さんのロクロ仕事を見ていると、服が汚れていないことに気づく。服を汚さないようなつくり方をしているのだ。益子の木村三郎さんという卓越した陶工もやはり土が乱れていない。要するに良いつくり手というのは余計なことをしなくてもきちんとできるのである。小鹿田焼の黒木力さんも、小鹿田の土質は粘りがあり、水引きする作業の過程でかなり土が飛散するはずなのに服は汚れていないのだ。つまり、一流のつくり手は汚さないのが基本なのだろう。

 宮内さんは大物をいとも簡単につくっていくし、今でも1石、2石くらいの甕は注文を受ければつくれる大変な方なのだ。ただ、今は蹴りロクロではなく、電動ロクロを用いてつくらざるを得ないのだが。そのつくりが良いとか悪いとかではなくて、規格品をかなり速いスピードでつくっていく技術を持っているということ。

 現在はかっての玉づくりではなく、紐づくりで巻き上げてつくっているが、そうして成形した物を窯に入れるには1人の力ではどうにもならない。跡継ぎの息子さんと一緒に入れているのだが、老体に鞭を打っている姿を目にすると、この仕事もそう長くはないなと思う。80歳になって腰をかがませながら歩いているのを見ると、かなりきついのだろう。今まで長い時間、どれほどの大きな物をつくってきたのだろうか。

 このような貴重な大物づくりの技術をなんとか継承する人を探さなくてはいけない。息子さんはもう大物づくりをしないという。確かに大きな甕は不必要な時代だけれども、活用する方法を見出さなくてはならない。昔とは異なり、容量が価格に反映するので高くならざるを得ないのだが、それでも普通の焼き物に比べれば、はるかに値段が安いので、なんとかできないものかと思う。

 宮内さんはまた、大物のみならず、小物も非常に上手だ。彼のような知られざる名工、陶工はかつてはたくさんいたが、1人、2人消え、残ったのは益子の木村三郎さんと宮内さん、沖縄の新垣栄用さんと80歳に手が届く人ばかり。こういう人たちの仕事を継がないと、日本の本質的な焼き物の良さを残せなくなってしまう。大きな物をつくれて初めて、小さな物をつくれるからだ。

 今後を担う世代において、日本中で日常雑器の大物づくりができるのは現状では小鹿田の坂本浩二君のみで、これから彼への期待は増えていく。しかし、各地の窯でそういう人が現れるのを待ち望むし、可能な人を探し、仕事を残す方向へと持っていくよう私たちがしなくてはいけないと考えている。

この記事を終了する数日前、宮内謙一さんが脳梗塞で入院したとの連絡が入ってきた。何ということか、今私はコメントが出来ないのでいずれ病状結果によって明らかにし、また新たな報告をしたい。早いご回復を願うばかりだ。

大きな平皿

最近、新たに注文した植木鉢