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朝鮮陶器と竹細工の関係〜池田孝雄さんの竹細工

朝鮮陶器と竹細工の関係〜池田孝雄さんの竹細工

2012年7月30日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

今回は朝鮮陶器が伝わった唐津の里で、今もなお竹細工に取り組む池田孝雄さんを紹介する。

北部九州の竹細工産地

 九州には別府をはじめ、いたる所に竹細工の産地があった。北部では、福岡県の二日市近辺にも数名の制作者がいたが、昭和40年代には仕事が無くなってしまった。また、近くの佐賀県内の吉野ヶ里に近い川久保という地域もかつては竹細工の産地だった。とくにここの竹は良質で、1年物の柔らかい竹で取手を巻く優れた技術を持っていた。しかし、川久保も15年ほど前に最後のつくり手がいなくなった。
 平野の多い佐賀県は農業が盛んなため、武雄の西川登(にしかわのぼる)という地域など農作業用の竹製品をつくる産地がいくつかあった。西川登には庭木(にわき)、小田志(こたじ)、弓野(ゆみの)という3つの武雄唐津もしくは二彩唐津ともいう、青と飴の釉薬で松の絵を描いたり、緑釉を大胆に掛けたり、指描き、櫛描き、刷毛引きなど小鹿田や小石原の源流となるような技法を駆使した窯がいくつもあった。これらの窯は周辺の土地から陶土や薪を採っては、無くなると、すぐ近くの土地に移動した。半径5〜6kmの中にいくつも窯があって、ほとんどが朝鮮陶技を伝える日用品を焼いていた。
 17世紀のなかばくらいから60年間ほど、そういった物がずいぶんつくられたのだが、こういった窯が少しずつ駆逐されて無くなっていく。弓野という窯はしばらく残っていて、きれいな白の化粧掛けをしてから松絵を描いたものが日本国中に出回った。今でも骨董品として好きな人が多い。この地域はいつの間にか竹細工の産地として知られるようになり、西川登は佐賀県でも一大竹細工産地になっていく。
 山を隔てたすぐそばに有田焼があって焼き物の収納カゴ、あるいは県内の農業用製品を制作。さらには佐世保が近いため軍港や漁港用の製品をつくっていた。だが、西川登も現在はつくり手が数人のみとなり、廃れてしまった。

破竹を使い、左巻きする

 西川登がなぜ、いつから突然、竹細工の産地になったのはわかっていない。はっきりしているのは、用いる竹材が主に破竹(はちく)という竹であるということ。九州ではほとんど真竹(まだけ)を用いていて、破竹は径が細いため大量に必要とする竹細工には向かいないとよくいわれる。それでも真竹と破竹を併用する所は今でもあるものの、破竹のみを使うことは無い。ところが、西川登のつくり手は破竹がいちばん使いやすいという。使いやすい真竹も採れるのに、どうして破竹だけなのか、真竹を用いれば効率が良いはずなのに・・・。
 それから竹細工の縁の巻き方がすべて左巻きなのも不思議。これは朝鮮から入って来た陶器とまったく同じなのだ。九州の竹細工は全般的に時計回りの右巻きなのに、この地域だけは左巻きなのである。なぜ破竹を用いるのか、左巻きなのかはつくり手に聞いてもわからない。とにかく破竹の方が真竹より使いやすいという言い方しかしないのだ。その理由を知りたくて、歴史的な重みに考えを巡らせてみた。
 >西川登では朝鮮から伝わった陶器を当時は専門の陶工たちがつくり、焼き物が廃れた後も農業に従事できない人が焼き物の技術を使いながら、生業として竹細工をつくらざるを得なかったのではないだろうか。これはあくまで私の推察である。

 ただ、今は西川登で竹細工を専業にしている人はもういないといってもよい。栗山時雄さんという高齢な方は販売をしながら自分でも編む人だった。息子さんは編めないので、もう佐賀の竹細工は終わりかなと思っていた。そんな状況のなか、もう1人だけ存在は知っていながら付き合いが薄かった人がいた。

多々良を再訪

 西川登から7〜8km唐津市方面に行った中間に武内町がある。この町の多々良(たたろう)という地域もかつては北部唐津系といわれる唐津焼の産地だった。化粧掛けするような焼き物ではなく、素朴な土に灰を混ぜたような釉薬をぶっ掛けて防水するような物で、主に肥やし入れ、水甕などの大物粗陶器を制作していた。叩きという朝鮮陶器の技法を使うのだが、この技法は苗代川と多々良にしか残っていない。だが、この窯も昭和40年代の半ばくらいに仕事を辞めた。
 私はこの仕事に入って間もなくのころは、多々良にまだ細々と仕事を続けている窯がいくつか残っているということで訪ねたことがある。その時には松尾早雄さんというおじいさんがいて、湯たんぽや手あぶりなどのあまり大きくない実用品を制作していた。これも鉄分の強い陶土に灰のような粗末な釉薬をぶっ掛け、石炭で登り窯を焚いていた。その窯に時々行っては仕入れていた。もやい工藝の最初はこの多々良窯の塩壺の仕入れから始まったのだ。
 その窯の途中、多々良の里に入ってしばらくした所に竹細工をする人がいるとは知っていた。それでも当時、竹細工は西川登に次増喜さんというとても良いつくり手がいて、竹次さんひとりで仕入れは間に合っていたので訪ねずにいた。そのつくり手は周辺の農業用の物を制作していると耳にしていたが、実際にどれくらいの仕事をしているかは、当時は興味が無かった。
 ところが佐賀県の竹細工づくりをする人がいなくなり、長崎県の竹細工も無くなった時、そうだ、あそこにいたなと、8〜9年前、手仕事フォーラムを設立して、しばらく経った頃、多々良を再訪した。すると看板に「竹細工の竹雄屋」と書いであるではないか。驚いて中に入ると初老で、精悍な顔つきの池田孝雄さんがウナギ獲り用の長いカゴを制作していた。
 池田さんには息子さんがおられたが、不器用で制作はできず、竹細工の販売に回っているという。池田さんのつくった物や中国の業者などあちこちから集めた竹製品を2トン車に積み、九州や山口県の市や神社に出かけては販売していた。それで息子さんは家にいることはほとんど無いし、池田さんももうあまり数はつくれないと言った。
 池田さんはみかんづくり農家で、田んぼはあるが、自分の家用の米しかつくれず、地域の人たちも昔から田んぼで生計をたてられる人はいない。焼き物を副業でつくったり、どこかに働きに出ていたという。
 これは多々良という地域が朝鮮半島から来たつくり手の人から始まり、伝わった朝鮮陶器の工藝文化がやがて日本の文化と融合していったため、手仕事をしている人たちにとっては稲作を生業にするほど農家としての力は無かったのではと、私は推測している。

竹細工を制作中の池田さん(撮影:久野恵一)

万石ジョウケと角メゴ

  池田さんは見るからに眼が鋭くて、クレバーな印象の人なのだが、みかん農家として小高い丘にみかん畑をどんどん開発して苦労して土地を買っていったと話していた。おそらく地価のとても安い山林を購入して、自分で伐採したりしながらみかん園を造成していったのだろう。さまざまなみかんをつくっていてコンクールにも出すのだと言っていた。むしろ、ここ20年来はみかん農家の方が中心なのだと。竹は割に合わないし、息子も出来るはずもない。こんなことで飯が食えるわけではないのだから自分の時代で終わりだと池田さんは嘆く。
 つくられている竹細工を見せてもらうと、武雄の西川登と同じような物だった。ならば、西川登で竹次増喜さんにいろいろつくってもらったり、昔の物を改良してもらった物がずいぶんあるので、そういった物を池田さんに頼んでみようということになった。
 池田さんは倉庫の下階の土間で仕事をしていたのだが、上階に上げてもらったら凄まじいくらいの量の竹製品があって、そのほとんどは息子さんが仕入れた物だった。中には池田さん自身がつくった物も混じっていて、「万石(まんごく)ジョウケ」という船の形をした米をあげるザルがあった。ちょうど一斗の米が入るザルで、おもしろいのは引きずることができること。米を入れると安定し、重ねておいておける。これは佐賀平野の独特の製品だ。八女の方でもつくっているが、その製品も左巻きであることから佐賀平野の物を真似たことがわかる。これは形も良くて、竹次さんにつくってもらって日本民藝館展に30年ほど前に出品し、毎年出しては、竹細工としては珍しくいつもすぐに売れた物だった。
 それから、「角(カク)メゴ」という物もあった。角の形をしたカゴという意味だ。これは2つのカゴを紐でつなげ、収穫用の物やお米などを入れて歩く物。底がイカダ底で、縁がござ目編み(間隔をあけた太めのヒゴに対して垂直になるように細ヒゴを密に編み上げる手法)。竹細工の縁は通常、縁を竹<ヒゴで巻き留めていく「巻き縁」なのだが、本体を支えるためと、かつぐためにヒモを通すよう力竹を回しているのがポイントである。>
 角メゴは柳宗理さんも大好きだったカゴ。宗理さんはこういう形態に眼がいくのだ。イカダ底の部分は青竹(皮を磨かない竹)を使う。使用頻度が多いために磨く必要は無いからだ。そして縁は磨く。手が当たる部分だから、滑りやすくするために磨くのだ。それゆえ、つくりたての角メゴは外側が磨かれ、中が青々としていて、その相反する色の具合がおもしろい。

 万石ジョウケと角メゴを池田さんがつくれることが嬉しく、この2つを注文しつつ、竹次さんがつくっていた「チャブレ」という茶碗カゴになる物とか、みかんを入れるカゴの「みかんちぎりテゴ」も制作してもらった。みかんちぎりテゴは改良すると買い物カゴになる。

万石ジョウケ

角メゴ

角メゴのござ目編みとイカダ底

最後のつくり手

 池田さんは現在78歳で、あと5年で仕事を辞めると言ってはいる。ただ、みかんをつくることに精一杯頑張っていて、体を動かしているので、どうだろうか・・・。息子さんが残念なことに手仕事を継がずに、販売に専念するということで、池田さんが仕事を辞めてしまったら、佐賀県で竹細工をする人は誰もいなくなってしまう可能性もある。仕事そのものの上手さでいったら竹次さんの方がていねいだったし、仕事に対しての心の入れ方も違っていた。池田さんの場合はあくまで副業的な立場になっているため、専業と副業の気分の違いが仕事の質に現れてくるのだろう。
 昔ながらの武雄周辺の焼き物の伝統がいつの間にか消えて竹細工となった。池田さんはその竹細工の最後の生き残りの一人であるということ。大事にしていきたい人だなと思う。