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Kuno×Kunoの手仕事良品

佐藤多香子さんの織物

佐藤多香子さんの織物

2012年9月26日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

「衣」を軽視

 先日、グラフィック社より私が監修した「民藝の教科書 染めと織り」の本が出版された。私は今まで陶磁器と編組品、木工品とガラスと関わりがあったけれど、織りと染めに関しては軽視してきた。私も含めた民藝関係者の多くは着るものなら何でもよい。着るものにお金をかけるくらいならば、物を買いたいと考えていた。住・食・衣という順番が、私たちの基本的な路線なのだ。

 ただし、ダンディな柳宗理さんは別格だけれども、民藝の仲間のなかにも、染色工藝家の柚木沙弥郎さんや四本貴資さんなど服のセンスのよい人もいた。しかし、民藝関係者のほとんどは、「衣」に関しては無頓着。秋・冬・春先まではホームスパンの服を着て、その後は木綿の織ったものをシャツに仕立てたりといった富裕な仲間もいたが、稀であったという印象だ。

倉敷本染手織研究会

 外村吉之介さんは倉敷本染手織研究会(倉敷美観地区の中心地に1953年設立。かつては民藝関係者の令嬢たちの手習所的な場として、近年は染織を学びたい女性たちの学びの場として、今までに300名以上の卒業生を送り出してきた)をつくったとき、結婚して家庭をもったら、せいぜい家族が日常で身に付けるものを自分で織りなさいと説かれた。質素なものでよいからと指導したけれど、昭和40年以降は大量生産される化学製品が安価な上、耐久性、退色性に優れているため、どうしてもそちらを購入してしまう。  外村先生もいつも藍の作務衣のようなものを着られていたが、それは老人で様になっているから似合うのであって、普通の人には難しい。

 私と「衣」の関わりは、佐渡島の裂織(さきおり)と巡り合ったのが、ひとつの発端だったと思うが、私の店「もやい工藝」ではそのような物はあまり扱わなかったし、手頃な価格のインドなどの布を置くくらいだった。

 平成7年ぐらいからは、もやい工藝で倉敷本染手織研究会の卒業生たちの展示会を開くことになった。卒業生が織ったものを販売する機関が無いので、毎年3ヵ所ほどで、発表の場が設けられていたのだ。しかし、関東ではあまり催されていなかったということで、外村先生が亡くなる直前、私の店でぜひやってもらえないかと要請があった。

 私は正直、乗り気では無かったが、民藝運動に携わる立場もあり、引き受け、3年に一度、もやい工藝で会を開くことになったのである。そのときに、相当数の卒業生から膨大な量の織物が送られてきた。しかし、それらはほとんど同じような物ばかり。その中から上手い下手というよりも、織り柄のセンスを見て選ぶと、自分の眼につくものが何点かあった。これはなかなかよい感じだな、センスがよいなと感じるものがある。その織物の裏側には品番が書いてあって、織り手がわかるので、それをメモしていった。そして、私の店のスタッフには、この人の何番の製品が良いので、中心に据えて展示するよう指示した。

 こうして選んだものの半分が同じ織り手の製品だった。その人は佐藤多香子さんで、新潟県長岡市で織物をされていた。専門の織物業というほどではないが県内の特定の販売店へ出したり、グループ展示会などもしている反アマチュアといってもいいかもしれない。

センスの良い織り手

 新潟県新発田の「いわむら民藝店」の店主にこの織り手のことを話すと、「うちの店に置いてある織物はみんな佐藤多香子さんのものだよ」と言われた。私の前に佐藤さんの名前が急速にクローズアップされてきて、3年後にまた会があった。その際にもやはり群を抜いて佐藤さんの織物が私の手に触れることが多かった。それで、一度会ってみたいと思い、「いわむら民藝店」から情報を入手した。
 15年ほど前、手仕事日本展で各県からいろいろな手仕事の良品を選んでいたのだが、新潟には何といっても木綿織物がある。それで、木綿の織物関連の物を選ぼうと、佐藤多香子さんの織物がいいかなと考えた。石川県金沢のデパートで手仕事展を民藝協会主催でおこなう際に佐藤さんに電話すると「では、私が金沢に行きますから」と出品がてら来られた。

 会って話をしたら、私と年齢が同じで、同じ武蔵美の出身だった。彼女もその当時の時代に反応するような活動をしていて、大学に嫌気がさして、外村先生の倉敷の学校に入り、織りの勉強をしていたという。  卒業後は実家の長岡に戻り、結婚された。ご主人は公務員で、佐藤さんは織りを続けて、近くの店に売ってもらっているうちに「いわむら民藝店」と知り合い、つくったものを置いてもらっているという話だった。
 金沢の展示会場では、彼女の木綿織物を見せてもらったが、風合いや柄の取り合わせなど心に響くものがあった。織物は平面的な物のため、柄に善し悪しが左右される。極めつけの作家と異なり、文様とか、そのもののセンスが良いかどうかが問われる。やはりセンスの優れる人は何をつくっても良いのだ。

佐藤多香子さん。工房にて
(写真/松本のりこ)

佐藤さんの織物
(写真/松本のりこ)

社会性のある人

 佐藤さんは外村学校にいたとき、有志の女性5〜6人でこういう工藝的な仕事をしながら山村のなかで生きていく道を模索したいという志をもった。卒業後には、みんなで探し回って静岡県浜松市天竜区と長野県飯田市の間、標高1,082mの青崩(あおくずれ)峠の静岡県側に水窪(みさくぼ)町で廃屋を借り、集団で織りをしながら、畑を耕し、農作物をつくって自活していこうとしていた。 

 そのことが朝日新聞に取り上げられた。ちょうど「もやい工藝」を立ち上げようとしていたときだったので、私たちと同じような考えを持っている女性たちと会ってみたいという話が仲間の間で出たこともあった。

 私も学生時代に水窪は訪ねていて、地形を知っているだけに、あんな辺境の山奥でこういうことをしようなんて、なかなか意識の固い人たちだなと思った。しかし、この運動は立ち消えてなくなってしまい、なんだ、話だけだったのかという印象だけが残った。

 佐藤さんは、この女性のうちの1人だった。社会性を帯びた方向で仕事に取り組まれていて、私と同じ年齢だし、同じ学校だったということもあり、親近感が湧いて、長岡の工房を訪ねた。

 だが、工房に行くと落胆した。端布でバッグや手提げなどの小物製品に仕立てたりするのだが、それがあまり良くないのだ。そういう現代的なものを無理につくりだそうとすると、仕事が純粋性から離れてしまうのだろうか。

 どんなに織りに対するセンスがあっても、それをまとめあげていくのは、プロデュースする人がいないと難しいのかなと感じた。

 ただ、仕事自体の方向はよかった。納屋の上に機織機(はたおりき)を2台置いて、織っているのだが、注文に追われるのではなく、お母さんだけを集める会で自分たちのつくりたいものを織ってみたりと、仕事の内容が活動的なのだ。

 また、佐藤さんは織った物を新潟近辺のギャラリーや民藝店に持って行って扱うようにしてもらっていた。そうして「いわむら民藝店」からずいぶん注文を受けるようになったのだそうだ。この民藝店では、巾着袋がよく売れたそうだが、私はこれがあまり好きではない。問題は紐なのだ。せっかく良い織りでかたちづくられても、使う鋲やファスナー、紐などが今的な物を使う。それがどうも本物の仕事と違和感がある。それで、私は巾着袋などの製品は手に触れず、なるべく単調に織った物だけを注視していた。

佐藤多香子さんが織った麻のテーブルセンター

裂織に感化

 当時、佐藤さんは裂織も手がけていて、これもわりときれいだった。「裂織をどんどんやってみたら?」と聞くと、「いや、裂織は誰でもやる仕事で私より上手な人はいっぱいいるし、なんといっても久野さんは新潟の佐渡に行っているのだから、そこで裂織をたくさん眼にしていたら、別に私がやるほどのことではないのではないか」ということだった。

 その後、手仕事フォーラムを設立し、佐藤さんも参加してくださって、手仕事逸品展には必ず織物を出してくれるし、木綿のよい仕事をされている。6年ほど前には手仕事フォーラムの集まりが佐渡島で裂織をテーマに開かれた。そのときに、佐藤さんが来てくれて、裂織をしている女性や指導されている柳平(やなぎだいら)則子さんにも私たちと一緒に会った。

 すると、佐藤さんは裂織に強い影響を受け、裂織の仕事をしたくなってしまった。裂織に日本の暮らしのあり方の根本を見出したのだ。

 その後、一ヶ月もしないうちにいきなり私に世話になったから使って欲しいと、裂織のテーブルセンターを何枚も送ってきた。これがとても良かったのだ。材料そのものは普通にある、市販されている布地を裂いたものなのだが、センスが良いのだ。外村さんの学校を出ていたことが根っこにあるのだろうし、社会性を帯びたものを感じ取る感性が彼女のなかにあるのだろう。

 佐藤さんの裂織を褒めると、今度は裂織ばかりを織るようになった。裂織は材料とセンスが大事。材料は当然、昔の天然染料の草木染めのものがよい。ところが今はそんなものは探してもなかなか無い。とくに藍染めのボロ布は出尽くして入手できない。私もずいぶん前には持っていたが、今はもう無い。すると、佐藤さんは高くてもよいからと、近くの骨董屋などを回っては1kgほど高い金額で買い集め、その藍染めの古布を用いた裂織をする。材料代と手間を考えると、非常に高いものになるのだが、あまり高くしては買う人がいないだろうし、ほどほどにと自身も理解されていて、価格的も安い金額で織ってくれる。

 佐藤さんの娘さんと息子さんは母親の織りの仕事と方向性に共鳴されて、時々、一緒に仕事をしているらしい。そういう意味で、佐藤さんは私たちと同じ世代だし、貴重な織手の1人だと思った。

 つまり、良い材料さえ提供できれば、良い仕事はできるということ。それにセンスが加わればなおのこと良いのである。

裂織のテーブルセンター

美しい裂織とは

 日本民藝館やその他の民藝館、または芹沢C介先生が美しい古い昔の裂織を収集し、展示されている。この展示品からは、裂織はやはり模様が重要だと見てとれる。それと、これら展示品の裂織の布にする際の工夫にも着目したい。

 裂織の織り幅は決まっていて、地機(じばた)、佐渡ではネマリ機(ばた)で細幅に織る。それを布にするにはつながらないといけない。今の高機(たかはた)でも織り幅は36cmだから大きな布、たとえば幅108cmの布をつくるには、何枚もつなげなくてはならない。布と布がつなげるには糸でおこなうのだが、この工夫がおもしろい。つなぐことを「かがる」というのだが、布と布をかがるときの、糸のかがり方の工藝的な要素が美しさを醸し出しているのだ。

 裂織は、織ること自体はそんなに難しいものではない。ボロ布を細い幅に裂いて、糸玉にして緯糸にして、織って、織りを詰めれば詰めるほど、地が厚くなるし、織りを柔らかくすれば、柔らかめのものができる。敷物にする場合は、地厚にして打ち込まないといけないけれど、こたつ掛けのような、上からクロスにする場合は筬(おさ)を抑え気味にして打って柔らかくする。

 それから経糸に何を用いるかも大事。緯糸に使うのが厚いボロ布ゆえに、経糸が細ければ切れてしまう。そのため一般的に木綿の番手を双糸(そうし)として経糸にする。しかし、あまり目が詰まっていると、横に入りにくいため、そこで打ち込みが途切れてしまう。その兼ね合いだけが難しい。

 さらに、美しい裂織は材料のボロ布が天然染料で染めた物であり、防寒性を考えて昔は紙布(しふ)を織り交ぜている点にも注目。紙はとても密着性があるため、隙間がなくなる。これを所々に入れることで防寒性が高まるのだが、その断片的に紙布の白色が見え隠れするところに美しさを生じさせてくれるのだ。  このように、良い裂織とは、まず使う材料の染色の問題、それからそれをどういうふうに取り入れて模様化するかということがある。そして、かがったときの状況。この3条件を満たす裂織の織り手は今、ほとんどいない。佐藤さんの場合は材料入手に苦戦している。彼女のセンスが活かされて、裂織がもっともっと広まれば、化学染料であることはやむを得ないとしても、木綿の服を着ている人はたくさんいるわけだから、この素材を上手にセンス良く、うまく織れればよいのだが・・・。

裂織ラグマット。佐藤さんが懸命に布を集めて織ってくれた。
裂織をこのような敷物や布団カバー、あるいは車のマットにしたら魅力的な製品となるだろう

どう使うかも大事

 この連載記事の第34回「毛織物語」に登場する、私の友達の故・蟻川紘直(ひろなお)は、裂織は織物ではなく、荒物だと言った。織手の人たちは憤慨したけれど、私はどちらでもよいと思う。裂織は荒物のようなものかもしれない。織りの染織家が一生懸命織って、糸から織りまで研究尽くして頑張っているのと比べれば、裂織はまわりにある材料を裂いて、単純に織っている。同じ織りに入れたくないという気持ちもわからなくもない。しかし、それを使うのは一般の人たちなのである。身に付けたり、敷いたりして、美しいライフスタイルをつくっていくことが大事なのだ。

 佐藤さんのようなセンスの良い織り手は貴重だし、こういう人に習いながら佐渡で保存に携わっている人たちが今後の裂織を展開していってほしいと願う。11月7日からは「もやい工藝」で倉敷本染手織研究会の展示会をおこなうし、これには佐藤さんの裂織も加わるし、ノッティングの仕事も展示する。卒業生たちがどんな仕事をしているのかを見ていただきたい。中にはセンスの良い人もいるかもしれない。それを見極めて欲しい。

 

※[裂織](参考文献/「民藝の教科書A 染めと織り」グラフィック社)

 使い古された古布を細く裂いて緯(よこ)糸として織りこんだ織物を裂織と呼ぶ。布を使うため分厚く、防寒に適していたこと、木綿などが貴重だったことなどから、とくに北陸から東北の日本海側にかけて盛んだった。

 民俗学者の宮本常一さんの佐渡島相川町の調査に同行したことから、島の博物館に就職した柳平則子さんは島内の裂織の織り手のおばあさんに出会い、文献に残らぬ仕事を後世に伝えねばと自ら織り手となり、多くの人に知ってもらうための一環として体験学習会を実施。その地道な活動が実を結び、今や裂織は佐渡島を代表する名産品となった。

 久野恵一さんは佐渡島で今は亡き織り手、計良(けいら)サツさんと出会い、サツさんの裂織の材料となる藍の木綿が手に入らないと嘆くサツさんのために久留米絣の廃品回収業者を回って古布を買い集め、そのボロ布で織ってもらった敷物を今も大事に使っている。

 ちなみに、もやい工藝の板の間には、サツさんの裂織の敷物が敷かれていて、実物を見ることができる。藍の木綿と桃皮の染料で染めた布団地を合わせて織っている(中川原さんが板の間で製作実演をする際に敷いた)。サツさんとの出会い、交流についてはこの連載の第12回で詳しく紹介している。