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Kuno×Kunoの手仕事良品

秋月のフォーラムで感じた伝統の力

秋月のフォーラムで感じた伝統の力

2012年12月28日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

秋月のフォーラムで感じた伝統の力

 この度、手仕事フォーラムの集まりが私たちの直営店「秋月」にておこなわれた。その際に驚いたのは、小鹿田焼の若い後継者たちが6人も参加していただいたということ。83歳になる小谷真三さんや、同世代の陶工と接して、自分たちの仕事がどのような方向に向かっていけばよいのか考え、希望を与えるのに大いに役立ったと思う。

 後継者の中心人物は、みんなに慕われ、また小鹿田の優れた伝統を残していこうと強く説く坂本浩二君であることもわかった。その若いつくり手たちの若奥さんも皆、とてもよい人たちだったことにも感じ入った。こんなによい状態で後継者が育ってきているのは喜ばしいことだ。
 平成7年に重要無形文化財の保持という国からの称号が与えられ、さまざまな特約があり、そのなかには、奥様方、後継者たち、あるいは現在の窯元たちがそれぞれ地方に行って実態を観る予算が含まれていた。私はその特約を危惧していた。余計なものを見て、妙に感化されて、個人を出そうとする方向や特異な物づくりをめざす人との相違性を見せようとするとか、そのことによって技術以前のところにいってしまう窯元が出てくるのではないかととても心配していたのだ。

 しかし、実際には伝統の力は強く、そういうことを反面教師とする姿勢が彼らのなかに植え付けられていた。また、若い奥様方が小鹿田という狭い空間のなかで共同体的な仲間意識を持ち、仲良く、現在の形態を守っていきたいと無意識のうちに培ってきていたようだ。そのことを今回の旅で感じた。

 これまで私は頻繁に小鹿田には足を運んではいるけれど、これほど若い後継者と奥様たちと話しをしたのは初めてで、彼らから本音を聞けたのは貴重な体験だった。

 そして、私たちはより協力的に彼らに関わらなくてはと思った。今までは「もやい工藝」との個人的な関わりで陶工の坂本茂木さんと柳瀬朝夫さんを中心に40年近く付き合ってきた。その途中から若い坂本浩二君が伝統の道をまっすぐに受け継ぎ、手仕事フォーラムを立ち上げてからは、やはり若い陶工の黒木昌伸君とも知り合った。黒木昌伸君も今や小鹿田で1、2を争う人気者になってきて優れたつくり手になりつつある。

 このように生真面目に仕事に取り組もうとしている若い人たちの仕事を見守らなければならないのだと、今回の集まりではっきりとわかった。それは私にとっての大きな成果だったと思う。

 また、若い人たちがこれからの方向に対してひとつの筋道、自分たちがやっていることを基本的に理解している人を必要としていることもわかった。そして、新たな制作を展開していく場合にも、筋道を立てた上で進んでいかなくてはいけないという彼らの方向に対して答えていかなくてはならないと感じた。
 また、私の広範な人間関係と各地域でさまざまなことを観てきた経験に対して、若奥様方が理解をある程度示してくれたのは手仕事フォーラムの存在と、この連載記事をはじめとして、私の今後の方向を伝えてきた成果であろう。

 全国的に今の社会では、各地域の疲弊した経済状況のなかで、つくり手は自分たちのやっている仕事が果たして継続できるのかという危惧感を抱いている。それを打開するために自家売りをする。そのためには自分の仕事をアピールしようとする。そうして健康で無駄がなく、いばらないこととまったく逆の、不健康でいばった、堅牢性を無視した物をつくり、何かパフォーマンス的な仕事に取り組む。それに、他人の真似の真似をする。かなり軽薄な部分が多くの窯元の次世代の人たちに目立ってきているのが現状だ。それは彼ら親たちの現窯元(窯の代表者)のほとんどがそうだからだと思う。

 小鹿田の伝統が今も強く残るのは、筋道を立ててきた窯場の環境がそこにいる人間を育てているからだろう。そういう意味でも、各地の窯場を回って、伝統の継承と後継者のことも含めて今後の方向を考えると、いちばん可能性を感じたのは小鹿田である。

秋月手仕事フォーラム講演会(写真:秋山まどか)

長老が亡くなる

 小鹿田の明るい未来を確信しつつ、「秋月」で宴会をしていた晩、突然、坂本浩二君に電話がかかってきた。柳瀬満三郎さんがお亡くなりになったという。柳瀬満三郎さんは柳瀬朝夫さんの隣にある窯で、柳瀬の本家にあたる。ご先祖が小石原から陶器の技術を導入して小鹿田に伝えたという開祖の家系筋であるそこの当主として、私がこの仕事に入ったときはすでに小鹿田の陶工として世間にも知られた人だった。

 これは坂本茂木さんから聞いた話なのだが、バーナード・リーチさんが昭和29年に小鹿田に来山して制作したとき、リーチさんのロクロ仕事を皿山の窯元たちが代行したのだ。、満三郎さんはその陶工たちの中心となった人だそうだ。ほかには、坂本晴蔵(はるぞう)さん、小袋遊喜(ゆうき)さん、黒木利保(としやす)さんが、リーチさんの物を多くつくったそうだ。リーチさんはそれに模様を描いたり、釉薬を掛けたり、かたちを指導していた。

 満三郎さんは確かな技術を持ち、小鹿田本来の方向性を持ち、他産地へ修行に出た人ではない。小鹿田の他のほとんどの窯元たちは修行や訓練は他の窯で学んだため、小鹿田の正統な流れではない。小鹿田本来のつくりそのものを今まできちんとやってきたのは柳瀬満三郎さんと、その隣にいる黒木力(ちから)さんだったと思う。この2人が突出した長老としてまだ生きておられたということ。この2人が長老として君臨し、その年下に坂本茂木さんがいた。

黒木力さん

昔気質の最後の職人

 実のところ、私は満三郎さんとは縁が薄かった。満三郎さんの製品を仕入れていなかったからだ。この仕事に入って間もなく、40年近く前に小鹿田の窯を訪ねたとき、当時の各窯元にはきちんとした商売相手の業者が付いていた。そこに入り込むのは、おこぼれを頂くしかない。

 坂本茂木さん、柳瀬朝夫さんもそのとき、すでに有名だったからさまざまな業者から引く手あまただった。しかし、数年後には両者との人間関係がとてもうまくいき、ほとんど私はこの窯から仕入れるようになる。何となく将来の道筋をお互いに感じたからだと思う。

 満三郎さんの窯にも多くの業者が来ていて、最初に訪ねたとき、若造が来る所ではないと、すぐに断られた。ただ、つくっている物は販売しやすいような、かなりきれいな仕上がりで、模様もかなり技巧的な物。いち早く刷毛と指描きの技法を混ぜたような仕事をしていて、製品は隣の黒木力さんと似通っていた。力さんもそんな方向だったし、仕事ぶりも同様だったのだ。

 その後、だんだんと景気が後退していき、業者が減っていった。ところが私はその頃、勢いがあったので、坂本茂木さんと柳瀬朝夫さんの窯には窯出しのたびに通い、さらに坂本浩二君にも関わりだしたので、半端な仕入れ額ではなかった。小鹿田の人たちは、業者が減っているのに、私だけは元気がよくて、しかも特定の窯しか行っていないことが、狭い地域だから知れ渡った。

 満三郎さんは本家のため、柳瀬朝夫さんを分家という意識でみていたようだ。さらに朝夫さんのつくりをとても否定的にとらえていた。朝夫さんは体に障害がある父親のかわりに、それほど仕事が上手ではない祖父から技術を習った。そのため、つくり自体は小鹿田的な上手な名工から見れば、下手と感じられてしまう。下手で仕事が荒いことが満三郎さんには気になっていたようだ。しかし、そのつくりに素朴さや、自然性を感じる民藝の物の見方があるのだが、流れのなかで努力してきた職人から見れば、そういう仕事ぶりは認められなかった。それなのに、朝夫さんは不景気のなかでも経済的に安定していることが目に映ったようだった。

 たまたま小鹿田の人たちと飲み会があったときや、山のそば茶屋へ坂本茂木さん、柳瀬朝夫さんと昼食を食べにいくと、その場に満三郎さんが付き合いのある業者と酒を飲んでいたりした。かなり酔っていて、私と眼が合うと、「おい久野。貴様は全然眼がない。お前はつまらん奴だ」とよく怒鳴られた。

 15年ほど前だったか、朝夫さんの子供は4姉妹で、長女に婿さんとして裕之(ひろゆき)君が迎え入れられた。それで披露宴があり、小鹿田の集落でお披露目が催された。このお披露目を地域ではお酒が入るという意味なのだと思うが、樽(たる)と呼んだ。その樽の儀式の最中に口上を述べる。

 当時の最長老である小袋遊喜さんの両側には黒木力さんと柳瀬満三郎さんが座り、とくに満三郎さんは本家筋で親戚の間でも筆頭のため挨拶をした。私は朝夫さんのところに招かれた主賓なので、本来は皿山の人たちの儀式である樽に入ってはいけないのだが、朝夫さんに「あんた入ってくれよ」と頼まれ、樽の末席に参加したのだ。

 朝夫さんが「ようやく私にも男の子ができました」とおもしろい言い方をして、祝詞をあげて口上を述べる儀式があった。それが終わると酒宴に入る。

 そして、飲み始めた途端に満三郎さんが私の顔を凝視していた。これはまずいなと思ったら、私のところへ駆け寄って来て、「お前はつまらん奴だ。お前は民藝館展に朝夫と茂木の物しか出さん。2人に賞を与える民藝館というのは物が見えん奴だな。選ぶお前はもっと悪い。朝夫ごときつまらん仕事をお前はなんでそんなに引き入れるのか」とさかんに言うのだ。

 「他の者がよい仕事をしているのに、お前はいちばん悪い窯場の物を持って行って独占している。朝夫の窯はお前のおかげでやっているようなもんだ」と言い、酒を突きだしてきた。出されたということは飲まないといけない。飲んだら返杯しなくてはいけない。そしてさらに飲んでは返杯するという繰り返し。やばいことになったと思い、逃げ出したかったが、うまい具合に黒木力さんが私に突っかかってきた。すると、満三郎さんと力さんがケンカになった。「俺が先にしゃべっちょるんだから、お前は引っ込んでろ」と満三郎さん。 「何を言うか。俺は久野に言いたいことがいっぱいあるから黙っていろ」と力さん。なんだ貴様とケンカになった隙に、私はさっと逃げ去った。

 満三郎さんはそういう昔気質な職人の集落の最後の人だった。その最後の人に茂木さんも入ってくるのだが、茂木さんは何か哲学的なものを持っていて、そういうものにはならずおもしろい。朝夫さんもおもしろい。もうひとり、坂本浩二君の父親の坂本一雄さんもおもしろい。このおもしろいオヤジ陶工3人はきわめて私と縁が深かった。

坂本茂木さん

柳瀬朝夫さん

坂本一雄さん

民藝の道を守る小鹿田の仕事

 小鹿田本来の気質を持った最長老の人が力さんを残して亡くなったことで、時代が変わると感じた。小鹿田の未来が過去から引きずってきた方向から、新しい方向に向かいながら伝統を継ぎそして築きながら進む。私に与えられた使命は、この伝統のよさをきちんと伝えていかないといけないし、この伝統を守ることが、実は民藝の健全な道を守ることなのだ。

 以前から何度も繰り返すが、鈴木繁男さんは、小鹿田焼を守ってきたことが柳宗悦の唱えてきた民藝の健全性をあらわす唯一の道だったと言われた。そのときは意味がよくわからなかったが、今は理解できるようになった。日本中の各つくり手の人たちが時代に合わせてさまざまな物をつくり、形態も釉薬も、使う諸道具も、仕事の方向も現代に合わせて変わっていった。唯一、小鹿田だけが新しい仕事に取り組んでも、昔ながらの伝統のよさをきちんとそのなかに備えてきているのだ。それを守ったのが坂本茂木さんだった。

 日本民藝協会から離れて日本民藝協団が結成され、その組織のトップである三宅忠一さんが九州中の窯元を協団の傘下に収めるため、いろいろな工作をして、仕事の道具や方向が変わった。小鹿田にも手がのび、電動ロクロ化や陶土づくりの共同化などを促がされた危険な状態にあったが、茂木さんと力さんを中心に、民藝の王道を守らなければ伝統はいずれ無くなってしまうぞと、長老たちと対決して勝った。そのことが今の小鹿田につながる大きな要因になっている。

 茂木さんを中心とする仕事は世間に認められ、やがて国に認定されることになった。そんな茂木さんのつくってきた物の中にある創出した美しさはいまだに、ほかに類をみないものである。伝統を守り、伝統のよさを伝えて、さらに仕事そのものも、よい物をつくり、美しさを現す物が出来上がっていくということ。その貢献者は坂本茂木さんだったのだ。小鹿田がこれから未来に、あらゆる変化があったとしても、普遍的に変わらないのだという道筋が立っているのだなと思う。私はこれに対して自身が関わり、これからも携えていけるという大きな気持ちになれた。

坂本浩二さん

後継者の将来をサポートしていきたい

 満三郎さんの息子、柳瀬晴夫さんが父親の守ってきた伝統を伝えながら、さらに孫の元寿(もとひさ)君が守り継いでいく。その後継者のリーダー格である坂本浩二君はすでに窯元になったが、彼の父親の一雄さんの力も大事だ。浩二君の長男の琢磨(たくま)君も来年の3月に高校を卒業すると、翌年から窯に入ることになる。窯には基本的にロクロが2台しか無いので、琢磨君が継ぐと一雄さんは引退しないといけない。しかし、まだ70代そこそこの一雄さんの仕事がまたよいのだ。きれいな仕上がりの物をつくる。それを浩二君がそばで見て、同時に茂木さんや朝夫さんの力強い仕事にも影響を受ける。また、力さんの仕事も尊敬している。こういうよいものを目ざとく見て自分の力にしていくというのが浩二君の仕事ぶりなのだ。

 ただ、持って生まれたものが沸き上がってくる力は茂木さんにはかなわないし、茂木さん独特のものだと思う。しかし、そういうところのよさを摘み取りながら、今の浩二君ができてきたのは、父親の一雄さんのもつ客観的な視点も影響している。決して仲がよい親子ではなく、否定しながらも父親の仕事のよい所は盗んできた。

 しかし、そんな一雄さんも来年引退したら、現役の旧世代は柳瀬朝夫さんひとりになる。しかし、朝夫さんも持病があるため、そんなに長くはつくり続けられないだろう。時代は変わっていくし、浩二君は自然をきちんと取り込みながら今後の仕事を継続していくことになると思う。これに多くの若い後継者たちが尊敬し、その仕事ぶりをきちんと見ていて学んでいきたいという姿勢があるということが嬉しい。  私は今回の手仕事フォーラムの会を開いて感じたことは、この若い人たちの将来的な発展を伸ばすためにも、その仕事の健全性を守っていくことに関われるのはやはり私たちではないかということ。浩二君や昌伸君のように、基本的に何がよいかがわかっている部分とはまた別個に、各窯元の伝統をきちんと見極めた上で、さらに新しい新作を取り入れながら小鹿田本来のよさ、健全性を守っていく道筋にまた私たちが踏み込める大きな気分になれた。それが今回のフォーラムの成果だった。