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Kuno×Kunoの手仕事良品

小鹿田焼の黒木昌伸君に期待

小鹿田焼の黒木昌伸君に期待

2012年12月28日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

深茶碗のヒット

 現在の小鹿田焼を牽引しているつくり手は坂本浩二君。そして、私たちが繰り返し紹介してきたことの影響か、同じく若き陶工、黒木昌伸君の知名度がどんどん高まってきている。浩二君いわく、今や小鹿田焼で最も売れている陶工だという。売れる理由は彼が売れやすい物をつくってくれるからである。大きな焼き物を手がけられるほどの力量がまだ備わっていないため、私はこれまで買いやすくて楽しめるような小物雑器を彼には頼んだ。小鹿田の伝統をきちんと守りながら、日常の暮らしのなかで使える物。今まであるようなオーソドックスなタイプではなく、若々しい力を現せる物を提案してきたのだ。
 その第1弾が深茶碗や小皿の製品だった。深茶碗を提案した8年ほど前には、何か良い見本となるようなドンブリを見つけようと、瀬戸に行った。しかし、この地には無くて、美濃で中途半端なドンブリのようなサイズの茶碗を見つけた。特定の用途に使われる物ではないが、かたちが良かったため、昌伸君につくってもらった。さらに、それに小鹿田らしい模様を施すよう提案。さまざまな模様の深茶碗を展開したのだった。この深茶碗が売りやすく、評判を呼んだ。昌伸君も自信につながったと思う。
 この深茶碗をもとに、大・中・小の3サイズを制作した。また、バーナード・リーチさんが小鹿田で描いたカエルの子が飛び跳ねる小皿を復元したりもした。リーチさんは小鹿田の陶工につくらせた、小皿の中に蛙の絵を描き色差していたのだが、絵を描かずに、中央の見込みの部分に素朴な釉薬を色出しした。この小皿も売れた。
 他にも4寸、5寸の皿に縁を付けてみたり、縁を反らせた物、フリーカップなどを提案しているうちに、皿も5寸から6寸、6寸から7寸と次第につくれるようにっていった。そして、今では昌伸君は8寸くらいの皿は普通に引けるようになった。   
 浩二君は自分以外に大きな物をつくれる人がいないと危惧しているけれど、昌伸君もここ10年で仕事の完成度も高くなってきて、仕事量も多くなり、それなりの物をつくれるようになってきている。
 それに、私たちと関わっていることもあって、存在を世に知られ、メディアにも登場するようになった。鹿児島大学理学部を卒業しながら小鹿田の伝統のなかに入って、一小僧から仕事をしている彼の立場にも注目度が高いし、人気のつくり手となった。
 しかし、まだまだ修練度は足りない。もう少し鍛えていかないといけない。

ロクロで制作中の黒木昌伸君

右はヒットした深茶碗。左が深茶碗の原形となった美濃のドンブリ

国立大学から窯元へ

 そんな昌伸君と私がどんなふうに出会ったのか、回想してみよう。
 小鹿田はご存じの通り、一子相伝で、長男が窯を継がないといけない。彼の祖父の黒木利保(としやす)さんは、私がいちばん足繁く小鹿田に通っていた頃の組合長だった。
 利保さんは坂本茂木さんや柳瀬朝夫さんの仕事ぶりとはやや違って、信楽焼で修行した影響もあってやや厚手の大物をつくり、小鹿田の模様や技法を施していた。また、茂木さん、朝夫さん以外に大きな物をつくる陶工は利保さんくらいだった。
 もちろん、黒木力(ちから)さんもいたが、力さんはせいぜい2斗5升くらいまでの壺しかつくらない。利保さんは3斗5升くらいの壺をつくることができるし、日本民藝館展でも大きな甕(かめ)が館賞を受賞したこともあった。それは飴の釉薬と二彩の流し掛けが活き活きとして、とても良い物だった。
ただ、小鹿田伝統の薄づくりではなく、かなり重たい物だった。
 ところが、昌伸君の父、富雄(とみお)さんは見るからに人柄良さそうで、優しそう。私は好きなタイプの人だった。それで富雄さんとは関わりを持ってみたいとは考えたものの、利保さんが富雄さんの横で仕事をしているため、なかなか入り込めなかった。
 その後、利保さんが亡くなられて、しばらくするとそこに卒業した昌伸君が戻ってきた。昌伸君が鹿児島大学へ進学したことは何となく耳にしていたので、国立大学を出た子が窯に戻ってきて、果たしてやっていけるのかなと思った。
 職人は門前の小僧から始まって、仕事に入るのは若ければ若いほどよい。小鹿田でも同じことだろう。
 中学を卒業してこの道に入り一人前になる窯元では、一般的なキャリアへの認識が異なる。大卒では、もう遅いのではとはじめは冷ややかな眼で見ていた。

釉掛けがされた深茶碗

急接近するための策

 ちょうどその頃、手仕事フォーラムが立ち上がった時で、初回の金沢での大会開催を終え、第2回をどこで催すかという話になった。仲間の小野寺公夫(きみお)氏という鳴子で漆器をつくっている、ベテランの塗師が、地元では温泉場をどうやって活性化させるかというグリーン・ツーリズム運動が始まっていて、それには安心な食物を提供したり、そういう農業活動をしている人たちと連携していくのがよいのではないかという話になった。
 では、手仕事と農業がどう関わるのかというテーマで催してみようとした。その時に小野寺氏が、「地域学」で知られる民俗研究家、結城登美雄(ゆうきとみお)さんと引き合わせてくれた。結城さんは手仕事フォーラムの方向性に理解を示してくれ、互いに意気投合した。
 結城さんと話していた時、故筑紫哲也さんが発起人でバックアップする大分県日田市の「自由の森大学」に招かれて行った際、学園の活動を手伝う坂本茂木さんに会いにいくよう勧められたという。
 あいにく、茂木さんは不在だったが、もうひとり学園を手伝う、大学出の若い小鹿田焼の陶工がいて、とても良い青年だからと紹介されたそうだ。それが黒木昌伸君だった。昌伸君は親切に小鹿田を案内してくれたという。
 私はたまたま、その前に昌伸君の顔を共同窯の窯出しで見ていたのだが、いい顔をしているなと直感的に感じた。2枚目であることはいうまでもないが、そういう意味ではなく、柔らかさと人柄の良さが顔から見て取れたのだ。父親の血を引いているのだろう。見るからに温厚で、眼が輝いていて、良いつくり手になる雰囲気を持っていた。
 それで、私も彼に接近しかったが、小鹿田という所は難しくて、周辺への気遣いもおざなりにできない。それまで深く付き合ってきた、茂木さんも、朝夫さん、浩二君がいるのに、急に若い人に近づくのは、なかなか大変なのだ。後ろめたさは無いのだが、何となく今までの人間関係を考えると重たく感じる。そういう空気が小鹿田の中にはある。
 そういう状況下で、いかに昌伸君に近づいていくかと考え、名案が浮かんだ。
結城さんに間に入ってもらうという考えだ。結城さんがとてもお気に入りだから、昌伸君はどうだろうかと懇意にしているつくり手に打診するというもの。 
 ちょうど、盛岡の「光原社」では小鹿田焼の会を、つくり手を呼んで盛大に催すことになった。茂木さん、朝夫さん、浩二君は当然呼びたい。ではもう1人若い人をと、結城さんを通して昌伸君を招こうと考えたのである。
 かといって、結城さんの手をわずらわせることはできない。私が小鹿田に行き、まずは茂木さんや朝夫さん、浩二君に「黒木富雄さんの息子の昌伸君はどんな感じ」とあえて尋ねたのだった。
 「あいつはなかなかいい奴だ」と茂木さん。自由の森大学を手伝ってくれて、自分には都合のいい人と思っていてからこその言葉だろう。
 浩二君は「久野さん、これから昌伸君を指導してやってくれよ」と言う。これはしめたと思った。ちなみに朝夫さんは何も言わなかった。
 それで昌伸君の窯に行き、富雄さんに、盛岡で小鹿田焼の会があるんだけれど、この間、自由の森学園に講師で来られた結城富美雄先生が昌伸君にぜひとも参加して欲しいとたっての願いなので、どうでしょうか?と聞いた。富雄さんは「ああ、若い者に勉強させるのはいいことだ」と快諾。それで、茂木さんたちを手伝うような気持ちで来なさいと昌伸君に話した。

天日で乾燥している深茶碗の様子を確かめる黒木昌伸君

良い仕事を見て自己変革

 こうしてうまく昌伸君を連れ出して、茂木さんたちの仕事ぶりを見せて、小鹿田の良さと昔ながらの物を見せた。彼は茂木さんと朝夫さんの実力を思い知り、驚いただろう。こんな良い仕事をする人なのかと。また、浩二君の見えていなかった部分も眼に入るようになり、ショックを受けたに違いない。
 私はせっかく盛岡まで来てもらったんだからと、昌伸君に新たな注文を出した。これが彼との縁の始まりで、先にも述べた深茶碗と小皿、汁碗の小さい物を頼んだのだった。
 翌年には鳥取、願正寺で手仕事フォーラムの大会を開くことになった。その際、山陰の湯町窯の福間I士(ふくましゅうじ)さんや森山雅夫さん、小鹿田の茂木さん、朝夫さん、浩二君、昌伸君、龍門寺焼の川原史郎、哲ちゃんこと小石原の太田哲三、沖縄・北窯の松田共司を呼んで、中井窯にて制作実演会をおこなった。
福間I士さんのハンドル付けの技術、哲ちゃんの速い仕事ぶり、森山さんの丁寧できちんとした仕上げ、それから松田共司の頑張りといった仕事を昌伸君はつぶさに見ることになった。それから彼の中で自己変革が起こったようだ。
 当時、彼自身は悩んでいたという。それなりに知識を持って、勉強も好きだっただろうけれど、家業を継がないといけない。しかし、小鹿田に戻ってきても何をしてよいかわからない。ただ父親の横で、ただつくる物を見ながら真似て練習していた時に、新たな注文がまとまってきたこと。
 それから、自分の生き方自体に何となくもやもやしたものも抱いていたのだろう。だから、自由の森学園のような教養のある人の集まりに参加していたのかもしれない。そこに集まる人たちと語り合うことで、自分の道を確立したり、あるいは少し逃げていたのではと思う。
 そんな時に、凄い仕事をする人たちを見て、自分でこの仕事で生きていくには何が大切なのか、利口な子だからすぐに悟ったのだろう。早く小鹿田に帰って、仕事をしたいというのが、その時の想いだったと思う。彼はひとつの自分の道をつくってこの仕事に向かっていくようになった。
 この会以降、私も昌伸君への関わり方が非常にスムーズになった。

持参した見本を確認しながら製作の相談をする私と黒木昌伸君

訓練の必要

 昌伸君は現代的な子だから、森山雅夫さんのような、きれいな仕事とか、きちんとした仕事に眼がいくかと思っていた。ところが、おもしろいのは、彼の仕事にはわりと粗野な部分があるのだ。素朴性が強いのである。
 これはある意味では小鹿田の本質的なつくりそのものの内実に迫っていて、案外、昌伸君は小鹿田らしさを展開できるのではないかと思う。
 ただ、彼は22歳から仕事を始めて、まだ10数年しか経っていない。ようやく一人前の仕事になりかけてきている。段取りや訓練度はまだまだ未熟だが、これから仕事の繰り返しの中で、利口な子だから習得していくとは思う。
 それでも仕事はまだ遅い。ただ、出来上がってくる物の中に、小鹿田らしさが感じられる。これは持って生まれたものだと思う。個性というのは自分で意識して出そうというものではなくて、生み出されていくもの。その生み出されたものの中に、それぞれが持っている気質があって、その気質の中に昌伸君の素朴性、つまりは小鹿田の非常に重要な部分を感じられる。これを大事にしていくことは小鹿田の未来に関わっていくことだと私は思う。
 完成度の高い浩二君はこれからもっともっと伸びていくだろうし、日本を代表するつくり手になるだろう。昌伸君は小鹿田らしさを、日常雑器の中に体現できる新たなつくり手として頭角を現すだろうし、私たちも援助して、道をつくらなければならない。
 ただし、訓練度をもっと高めないといけない。それに、もっともっと、いろいろな人のつくりをきちんと見ていく必要がある。
 さらには、つくりの前のコツを得ていかねばならない。なるべく中クラスの大きさの物はきちんとつくれるように向かっていくこと。あと5年のうち、40歳前にそれを習得しないと、一流の陶工にはなれないと思う。小鹿田では優れた陶工であっても、一流の陶工になれるかどうかは、この5年間がポイントとなる。しかし、それがきちんとできれば小鹿田の他の若い人たちが、見習ってその方向へ共に向かっていくだろう。
 時代の様々な状況変化が行き過ぎてしまっている中で、小鹿田だけは昔からの一貫した手仕事の良さを伝えて、ものづくりの健全性を維持している。他が駄目になっても、小鹿田だけは残ると思う。良い窯が他にもあるけれど、次の世代の人たちが継ぐかどうかわからない中で小鹿田だけは後継者がきちんと育っていて、これからも元気よくいきそうだという勢いがある。私たちとしては、この勢いに賭けるしかない。

 私がこの仕事に入って、小鹿田とは生涯、関わっていかなければと感じたことが現実になりつつある。