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Kuno×Kunoの手仕事良品

白磁の染め付け

白磁の染め付け

2013年2月25日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 民藝店に置かれる白磁製品は有田焼の大日窯、砥部焼の梅野精陶所(梅山窯 ばいざんがま)が主力となっている。その他の白磁といえば個人名を主張した作家性を帯びたものが目立つ。

 最近監修した書籍「民藝の教科書」での取材で、私のもやい工藝店でも、対して仕入れしてこなかった砥部焼を少しずつ置き始めている。それでも、なぜ自分が少ししか置かないのか、そしてなぜ自分の心がこの焼き物に対してあまり感応しないのか、深く考えてみた。

 すると、その理由を明らかにするのは大事なことなのだとわかった。要するに、これは物の見方、視点に直結しているのである。

親しい大阪民藝協会長から贈られた鈴木繁男さんの笹文湯呑。これを観ることから白磁への自答が始まった

好きでない理由

 私が砥部焼のことを知った当時、厚手で、シャープさがまったく無い印象だった。絵付けも大まかに描いたような唐草文様があらゆる物に施されていて、うんざりした。それで私はこの焼き物にはあまり興味を抱けなかった。

 ちょうどその頃、東京日本橋の丸善デパートにデザイン製品を集めたコーナーがあって、そこで砥部焼が大々的に売られていた。それらは手描きなのに、何か自分の心を打たない文様ばかりで、どうしても好きになれなかった。

 好きになれなかった理由は、たぶんコバルトで描かれた文様が大胆すぎる上に人を圧するような感じがあったからだろう。磁土もかなり分厚い。たまにみかける薄造りの飯茶碗にしても、施された赤絵が浮いたような感じで、どうも心を打たなかった。

 その頃に、大日窯との付き合いが始まった。古伊万里を継承していこうとするこの窯の染め付けを観ていくと、模様が薄く描かれていて、絵柄も優しい。コバルトの色も淡さがよい。それで、大日窯の製品をもやい工藝でも置くようになる。一方、手で描いているのに、優しさが伝わってこない砥部焼はだんだん遠ざかっていったのだった。

初めての砥部

 その後、昭和60年前後のこと。私が家を建てる際に、瓦の選びが必要となり山口県徳山の親しい民藝店の店主と一緒に伊予瓦を見に行くと同時に砥部を訪ねることになった。私にとっては初めての砥部訪問で、向かったのは梅野精陶所だった。

 そこには鈴木繁男先生が描かれた製品があった。私が心惹かれなかった砥部焼とは少し視点が違うなと感銘を受けた。

 その2年後、池田三四郎さんと四国を廻ることになった。池田さんは、私が学生時代、四国西海岸の石垣の村などの話しをしたので是非行きたいとういことになり、私が案内することになった。そのとき、愛媛県西条にある愛媛民藝館に就任したばかりの館長さんから帰りにぜひ寄って欲しいと声を掛けられた。ならば、松山に泊まり、道後温泉にでも入ろうかということになった。

 そして、池田さんが砥部の梅野精陶所の梅野武之助社長はなかなか気骨のある人だから会ってみようじゃないかと言うので、訪ねることになった。

 梅野さんは大歓迎してくれたが、池田さんは「このごろは民藝の物をあまりつくってねえじゃないか」と切り出した。梅野さんは自分たちも商売だから売れる物を中心につくる。どうも民藝の物は販売が滞りがちだと言う。当時、100人単位の制作者を抱えていて、その人たちを食べさせることを考えると、売れる物をつくるしかないと。民藝店からの注文はわずかなものだし、まとまった数をつくっていかないと、こういう仕事はできないと話した。

 確かに染め付け磁器の仕事というのは、かなりの数量を一度に製品化しないと効率が悪い。しかも手描きなのだが、分業体制の流れ作業でつくっていくため、100とか200ぐらいの注文単位では応じられない。1000単位の数でつくっていかないと利益が出ないのだ。

 それだけのまとまった数をつくり、倉庫にある程度在庫しておいて、注文が来ると、倉庫から在庫を出すというのが、どこもわずかな注文しか出せない民藝品とのかかわりだった。とはいえ、民藝店との関わりがあったからこそ、そして、鈴木繁男先生の大変な功績があったからこそ、ここまで来られたと梅野社長は言った。

梅野精陶所の定番製品の中から私が選び出した物。これは型物のお皿

鈴木繁男先生の指導

 鈴木先生の弟子を自認していた私は、先生がどのような役割を果たしていたのか聞いた。社長によれば、昭和28年に柳宗悦さんがリーチさん、濱田庄司さんを伴って、訪ねてきたという。昭和29年にリーチさんは小鹿田に行っているから、おそらくこのときに日本各地を回られていたのだろう。そのときまで砥部は碍子ばかりをつくっていて、明治期になると、輸出用の物もずいぶんつくっていたそうだ。

 これは後に鈴木先生から聞いたのだが、砥部の生地は焼成すると硫化水素を発生するという。それは生地のなかに硫黄が多く入っているからで、その影響で純白の焼き物ができないのだそうだ。輸出用に活路を開いていた頃だったので、黄色がかった白は欧米では避けられてしまう。そのために骨材といって、骨を混ぜて白を出すよう工夫をされていたという。しかし、さらに安い物が瀬戸などで出来て、それが輸出されると砥部も廃れてしまう。そんなふうに四苦八苦していた状態だった。

 そこへ柳さんたちがグループで来られてアドバイスされ、その3年後ぐらいに鈴木先生が砥部に派遣されたのだそうだ。

 ただ、鈴木先生によれば、そのときすでに富本憲吉さんが梅野精陶所に居たという。富本さんも要請されて、そこで指導をしていたのだろう。鈴木先生はそれを手伝うようなかたちで派遣されて、制作指導をおこなった。

 たぶん、その指導もロクロ技術よりも、白磁は絵付けすることで価値が高まる物だから、絵付けの指導を担ったのだと思う。かたちそのものは富本さんがいろいろアドバイスしたのだと思う。

 その見本のほとんどが古伊万里だったのではないだろうか。つくられた製品を観ると、明らかに大日窯と同じく、伊万里系のかたちを利用していることがわかるし、そこからさまざまな物へ展開していったのだろう。

 鈴木先生はそこでしばらく制作指導にあたる立場だったが、自身は経済的に困っていたので、この仕事はずいぶん助かったことだろう。

クラフト系の台頭

 ところが、だんだん景気がよくなってきた昭和36年頃には、梅野精陶所にデザイン関係の人たちが入り込んできた。そうして、デザインのクラフト系と民藝系の二刀流体制となるが、だんだん民藝系の方が押されてくるのだ。

 その理由は世間が毒々しい物の方に関心があるということ。それから松山という街のなかに、料理店が増えてくるし、裕福な人たちが安物の磁器から砥部の物を使うようになってきたことも大きい。

 こうした景気の上昇にともない営業用に使われる焼き物が求められるようになり、砥部の梅野精陶所を賑わすようになったのだろう。当時には何百人という従業員がいた。感心するのは、そうした状況下でもロクロ成形と手描きをおこなっていたことだ。

 窯元のなかから独立して砥部周辺でつくる人もどんどん出てきた。梅野社長は、そうして独立した人も自分の所でフォローしてあげて、売上に困れば、自分の所で販売してあげたことだ。社長の力もあって、梅野精陶所は砥部を代表するほど大きくなっていく。

 しかし、その主流製品はデザイン的な絵付けを施した物になっていった。とくに今も変わらずつくられ続けているのが唐草模様だ。この模様、私は好まない。

  鈴木先生が関わった製品は伊万里のかたちを採り入れた物ではなくて、自分のつくりたいかたち、たとえば、縁につばを持たせたものとか、さまざまなかたちを採り入れていた。また、絵付けも指導しつつ、自分で工人としてつくった物もあった。

 製品のほとんどがクラフト系で占められていくようになると、私は砥部焼にいっそう眼が向かなくなった。

 そのうち、梅野精陶所の社長が亡くなられ、景気の波を大きく受けて廃れていく。職人の数は50人を割るぐらいになってしまった。同時に、販売も滞ったという噂も届いた。

 その後、愛媛県西条の愛媛民藝館で私が展覧会を催すようになると、梅野精陶所にも寄った。「もやい工藝」では関わらなかったものの、鳥取「たくみ工藝店」の仕入を私が担当していている関係で窯を訪ねざるを得なかったのだ。

 この店は昔から継続して砥部焼を仕入れていたが、その内容にあまり好ましい物が無かった。それで、私が梅野精陶所に行って選んでよいことになった。

 そうして、仕入れのために2年に1回ほどのペースで梅野精陶所に顔を出すようになったのが14〜15年前のことだ。私がその際に選ぶのはクラフト系の毒々しい物ではなく、淡い物。そのほとんどは鈴木先生が指導した物ばかりだった。

 私は仕入れしていたものの、この窯の内部にはそれほど入りこまなかった。その後、注文はファックスで十分な仕入れとなり、おとずれることはなくなっていった。

 

これも梅野製陶所の定番製品。徳利とお猪口

心地いい赤絵

 4年前、久々に梅野精陶所へ寄った際には、敷地にある小さな参考資料館に入った。そこには、濱田庄司さん、富本憲吉さん、河井寛次郎さん、バーナード・リーチさんが絵付けされた物などが展示されていた。しかし、圧倒的に鈴木繁男先生の描かれた仕事の物が多くあった。

 それほどたくさんあるのに、鈴木先生の物は今、あまり売られていない。ならば、先生が私によく言われた赤絵の良さを観るにはどうしたらよいのだろうか。沖縄へ赤絵の指導に一緒に行った時、先生は華飾なほどの赤絵ではなくて、簡素な赤絵を求められた。砥部で観る赤絵は非常に心地いいものが多い。それで砥部焼に対しての認識を改めたのだった。 

 そういう眼で観ていくと、鈴木先生のデザインされた物がどんどん眼に入ってくるし、民藝の立場でみても、砥部焼もまだまだ活路があるなと思った。

 しかし、今の従業員で鈴木先生のことを知るのは、梅野社長の跡を継いだ娘さんの女性社長さんくらいしかいなくなってしまった。ただ、職人の仕事だから見本があれば、模倣して描いて、ある程度の物はできる。それで私はこのところ、鈴木繁男デザインの物を主流にしてもらおうと、働きかけているのだ。

 染付磁器の良さは鈴木先生たちが手がけたものが原点だと思う。その背景には当然、柳宗悦さんがおられたし、リーチさんをはじめとする民藝の方々の物の見方が背景にあり、それを体現できたのが鈴木先生だった。

 そういうことを考えていくと、今は非常に弱いけれど、もうひとつ砥部焼に踏み込んでいったらよいかなと考えている。

現在は販売していない、鈴木先生がデザインした子供用飯碗

工場生産の長所と希望

 現在は、梅野精陶所から独立した人や、各地から入り込んできた人など相当な数のつくり手が砥部焼周辺にはいる。しかし、はっきり言って、展示場を観て欲しいと思う物は無い。その中で選ぶとしたら、梅野精陶所の鈴木先生系の絵付けの物と中田窯の物だ。

 中田君は私より2歳上で、梅野精陶所で研修した後に独立した人。伊万里の染め付けにとても興味を持ち、それを砥部の中で表現しようという方向を持っている。そして、鈴木先生の流れを評価していて、自分なりに取り入れたいと制作。価格的にも手ごろなだ。ただし、非常に癖が強く、全部がよいとは思えないのだが、本質的な雰囲気を感じるのだ。

 そういうことで私の砥部の見方は少し変わってきたのだが、やはり磁器染め付けというのは伝統的に工場生産から生まれる物であるということは不変だ。個人の窯からではない。これは伊万里焼も同様なのだ。分業によりつくられた物であり、そういう流れの中で製品ができてくる。

 ただ、大量につくれる工場は伊万里にも、有田にも無い。大日窯も家族経営だ。工場規模でやっているのは梅野精陶所しか無い。50人の職人により、分業体制でつくられていく。これは、かつての伊万里の形態をそのまま継いでいる。画一化された製品が多いけれど、それが広く出荷する力がある長所は大事にしなくてはいけないと思う。

 残念なのは、私がこういった物をつくったらいいとか、こういう物をつくらせてみたいなと思っても、それは受け入れられないのだ。あまりにも固定観念に捉えられた職人たちがいるものだから応用ができない。定番の物はずっとつくり続けるけれど、新たな物は受け入れられない。仮に受け入れられたとしても、千単位の注文でないとできない。そういうことで、新たなかたちを要求して、つくれと言ったとしても、なかなか簡単にはいかない。それがこの窯の気質を示している。というより生産体制が一貫しているのだ。

 仮にいいかたちがあって、いい絵付けができて、こういう物はどうかと仮に私が提案したとしても、受け入れられる余地は無い。そのかわりに、繰り返しつくられてきている定番製品の中で絶えてもらっては困る物、廃れさせてはいけない物をこちらがきちんと伝えて、この仕事を継続させていくしかない。

 そういう意味では、私が今まで関わってきた製作者の中でも、全く異質の存在なのだ。全く自分の意見が通らない。だけれども、そこでつくりだされている物は方向性さえ決まり(その方向性を決めるのは社会の力だと思うのだが)、皆さんが共鳴してもらえれば、またよい仕事が生み出されていくことになる。

 磁器の仕事が絶えずに続けられ、手仕事の絵付けによる物が梅野精陶所を中心に生まれていけば、安泰だと私は思う。

参考資料館にあった鈴木先生デザインの小皿を復元してもらった。