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Kuno×Kunoの手仕事良品

飯干五男さんのカルイ

飯干五男さんのカルイ

2013年4月1日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

実用的な竹細工づくりの危機

 今まで自身との関わりが薄いということもあって、取り上げてなかったのだが、竹細工にとっては最も重要な存在のカゴがある。昔、800万の神々が集まったという天岩戸伝説で知られる宮崎県高千穂町で、飯干五男(いいぼし いつお)さんが真竹を用い編んでつくるカルイである。現地では背負うという意味の「かるう」とか「かろう」からつけられた名前と思われる背負いカゴだ。
 このカルイを制作する人は飯干さんの他、廣島一夫(ひろしまかずお)さんという93歳くらいになる方がいる。すでに現役のつくり手ではないのだが、廣島さんが制作したカルイはワシントンのアーサー・M・サックラー美術館で展示されこともあり、海外にも名が知られている。
 そんな廣島さんの展覧会が昨年、近江八幡で催された。会場には廣島さんの制作物だけでなく、高千穂の地域で使われてきた民具が多数展示されていた。また、竹細工を継承する30〜40代の若い人たちが制作実演をしていた。
 私たちの言う竹細工とはいわゆる青物細工。青い竹を使った実用品づくりを指す。ところが今、従事している人の多くは白物細工を制作。竹の油を抜いて、あぶったものを素材とし、芸術的な工芸品や土産品的な物、お茶道具ばかり。これらを制作した方が食べていけるからだ。
 実用品づくりは手間がかかる割には価格が抑えられてしまう。そのため、この仕事を若い世代が継ぐことは、今日では不可能といってもいい。
 では、どうすれば実用品としての竹細工を継承していけるのか、この頃、ずっと考えていた。若いつくり手たちの竹細工は価格が高く、3〜4万円ほどの価格の物もある。一般の小売店で並べられるようなものではない。道の駅や物産展などで流通費用を無視して販売しないと売れない。
 つくり手の生活費を考えれば、制作に2日要したら、価格が4万円になるのも当然だろう。だが、4万円の竹細工を小売店で仕入れ販売することは不可能だ。竹細工は昔から実用品という認識がある。そんな高い物は芸術品でも美術品でもないのにと価値が認められないのだ。
 ただし、現代のネット社会でそういった物に興味を持つ人や、大事だから何とか今後につなげていきたいと願う富裕層がいる。継承していくには、そういう人に頼らないといけないのかもしれない。

 竹細工の若いつくり手のなかに、小川さんという飯干五男さんのお弟子さんから独立し、カルイを含めた多様な青物細工の竹製品をつくっている方がいる。芸術品ではないのだが、価格はそれなりになってしまう。しかし、カルイづくりを継げるのは、この人くらいしかいないようだ。

高千穂町、岩戸川渓谷の風景。厳かな美に満ちていた(写真/鈴木修司)

横長で堕円形に口が大きく拡がるカルイ (写真/鈴木修司)

必要に応じた造形

 美々津(みみつ)という延岡に近い所から、峡谷の下の川沿いに山を上がっていくと高千穂の峰々にたどりつく。峡谷と上方の高原地帯との高低差は大きく、冷えた川の蒸気が上昇気流で登り、いつもあたりには靄(もや)がかかっている。
 急峻な山々に囲まれていることもあり、そこに神が宿るように見えるのだ。
 かつて竹細工の道具をつくっていた人たちは峡谷の下の川沿いに住んでいたといわれていた。高千穂にはひとつの独特の文化が根付いていて、峡谷の下に暮らさざるを得なかった人たちがいたのかもしれない。
 そこで川魚を獲ったり、カゴ類を編んだりして、峡谷を上がって行き、高原地帯で農作業する人たちの農作物と物々交換して収入を得ていた。それで、山の上まで多くの荷物を運べる、かなり大きな背負いカゴを必要としたのだった。
 ただ、一般的に九州は照葉樹林帯のため、山道には木々が迫っている。そのために肩幅から出ない背負いカゴが発達した。
 縦長で、いちいち降ろさなくても、かがんで中に物をさっと落とせるように、上部が広がり、下がすぼまる、いわゆる朝顔型のかたち。さらに、背中に合うようなかたちをしている。これがカルイをはじめ、九州の背負いカゴの特徴的な造形である。

 また、編み方にも特徴がある。日本各地の様々な編組品とはまったく異なる形態なのだ。私は行ったことはないが、聞くところによれば、カルイは雲南省にあるカゴの編み方と酷似しているという。その理由はわからない。

高千穂を初訪問

  私がこの仕事に入ってすぐのこと。宮崎の日向路民藝店の経営者ととても親しくなって、たびたび泊まるようになった。その店にカルイが架かっていた。私は宮本常一さんのもとで学んでいたときに、その独特の背負いカゴを眼にはしていた。それが実際に販売されているのを見たのは初めてだった。

 カルイは物を入れて運ぶための純粋な民具で、一般の人には他に使い途がない。当時から私は、実用品を現代の暮らしにどう対応させるかということばかり考えていたので、カルイにはあまり関心を抱かなかった。高千穂が行きにくい場所であったということもあって、自分の行動範囲からはずれて、だんだん足が遠のいていったのだった。

 そのうちに日本民藝館展にもカルイが出品されるようになった。私がこの仕事に入り、館展に顔を出した頃、カルイが大きな賞を受賞した。出品者は熊本人吉、魚座民藝店の上村正美さん。熊本周辺の物を熱心に集めて、出品されているうちに、民藝館展の審査員にもなった方だ。この人と不仲だった私は、余計、高千穂には行きにくくなった。カルイに対してはそれほど大きな存在価値を認めていなかった。

 ところが、たまにあちこちでカルイを眼にすると、ユニークなかたちに独特の文化が潜んでいるようなことに興味はあった。

 その後、25年ほど前、小石原の太田哲三君のジープに乗り、九州南部を3泊しつつ走り回った際に、高千穂をはじめて訪ねた。そして、飯干さんの工房を探し回った。途中に眼にした高千穂の峰々に定着する人々の暮らしのありように眼が惹かれた。古代から続く日本の文化の匂い、村落社会の成熟の仕方が風景から伝わってきた。峡谷の下から上がってきて、定着したのではないか。そして、村から見える高千穂の連峰になぜ神が宿るのかも肌で感じた。

 飯干さんはとても気さくな方で、日本中の民藝店を相手にカルイを制作していた。上手だし、手際もよい。住まいの横に小屋を建てて長さ20mもあるような真竹を何本も置いて編んでいた。せっかく訪ねたからにはと、物をいただくこともでき、つながりができた。

飯干さんの工房入り口(写真/鈴木修司)

飯干さんの工房の内部(写真/鈴木修司)

その頃の写真(写真/久野恵一)

飯干さんとつながる

 そのときには6寸という小さなカゴも手がけられていた。壁掛けにして郵便物を入れるのにちょうどよい大きさ。ほかにも7寸、8寸、9寸、尺〜2尺くらいまでのバリエーションがあった。2尺ほどの大きなカゴもつくることはわかったが、それほどの大きなカゴは飾る場所もない。
 その後、手仕事日本展が催されることになり、手仕事調査で飯干さんのもとへ行くようになった。展覧会の展示のために、いろいろな注文をしなくてはいけなくなったのだ。それで、ニカ(二荷)カルイという非常に大きなカルイを注文した。
 それから10数年にわたって私の企画する手仕事展では、宮崎県を代表する手仕事の物として飯干さんのカルイを紹介した。
 手仕事フォーラムを結成して、しばらくしてからは宮崎への手仕事調査を行ない、メンバーの鈴木修司君を飯干さんのもとへ連れて行ったこともある。
 飯干さんは器用な方で、しめ縄も自身で編み、その編み方を教わった近所の方が上手になり、今、もやい工藝で扱う、鶴亀型のしめ縄製品をつくってもらうようになった。このしめ縄も昔から伝わる物なのかはわからないが、鶴亀の注連飾りは飯干さんを経由して今のつくり手につながったのだった。
 時々、足を運べば飯干さんとも顔なじみになるし、親しくもなる。ただ、全国の民藝店の注文に応え、どこにでも物を出していることもあって、私自身は特別な思い入れはない。ただ、カルイがなぜ、こんなかたちをしているのか深く知りたいという想いをずっと持ち続けていた。

制作途中のカルイ(写真/鈴木修司)

牧草を刈り取る際などに使用する大振りなニカカルイの部品。
通常のカルイの2倍もの大きさがあった(写真/鈴木修司)

関東地方で「連雀」とか「尾」呼ばれるカルイの肩掛け部分。
藁で編まれている。カルイの制作には竹だけではなく、
藁の細工もこなせなくてはならない(写真/鈴木修司)

消えゆく文化

 最近のことなのだが、飯干さんの体の調子がよくなくて、入院もされていたことを知る。私もしばらく注文を出していなかったが、「民藝の教科書」(グラフィック社)でカゴ、ザルを取り上げることになって、飯干さんを取材したいと考えたが、連絡をとった。ところが、連絡がまったくつかないのだ。
 その後、昨年の暮れに、高千穂近くを通ったので電話してみたら、たまたま出てくれた。実は入院していたと飯干さんは元気の無い声で答えた。訪ねてみると電話した前日に退院してきたという。体調が優れなくて30kmほど離れた延岡の病院まで毎日、車で通っていたのだという。その帰りに交通事故に遭い、瀕死の重傷を負ったのだとか。奇跡的に助かったのだと。
 それで2ヶ月間入院した挙げ句に、病院を追い出され、自宅療養のために戻ってきていたところだった。この仕事は無くなってしまうのかと驚いた。
 「自分の弟子に小川というのがいる。ただし、他の店に出せるような金額の物ではない」と飯干さん。私はそのことは知っていて、高千穂の峰々から生まれた文化がいよいよ消えてしまうのかなと危惧感を持った。

 ところが、飯干さんはとても根性のある人で、なんとかつくるから、もう少し待ってくれという。数千年の歴史が、飯干さんが仕事を辞めることで、ここ数年で途絶えてしまうかもしれない。九州の竹細工が無くなるとか、独特のカゴが無くなるということ以前に、もしかしたら日本の竹細工発祥の文化が無くなるかもしれないという気がしてならない。始まりと終わりが高千穂だったのかもしれない。

飯干さん (写真/鈴木修司)

製作中の飯干さん (写真/鈴木修司)

職人の根性

 「民藝の教科書」の取材にあたって、段取り表をつくって飯干さんに送った。1つのカルイをつくるのに1日はかかってしまうけれど、終日、張り付くわけにはいかない。3項目くらい、取材したいことを挙げた。すると、電話がかかってきて、対応できないと飯干さん。今の自分には力が無くて無理だからと。

 それで、もう一度説得して、一つの工程だけでも見せてくれと頼んで承諾してもらった。瀕死の重傷を負いながらも、まだ仕事を続けようという職人の根本的な姿勢には感嘆する。頼まれたら何でもつくらないといけないし、労力を惜しまない。一日に何時間仕事しようが、一日に何個つくろうかなどまったく頭にはない。頼まれた物は段取りよく、とにかく早く仕上げる。手際がよくないとこういう仕事はできないのだ。

 そういう意味では昔気質の職人が失われている状況の中、高千穂から湧いて出てきたような、文化性を強く感じる仕事の物がなくなるとしたら、大変なことだ。なんとか、この危機的状況を皆さんに知らせたい。