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Kuno×Kunoの手仕事良品

砥部焼への想い

砥部焼への想い

2013年7月31日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

堅さへの違和感

 私が40年ほど前、この民藝の仕事に入った時、まず陶磁器の仕事が日本各地でどのようなものがあるか、民窯地図を広げ、民窯の本を読み漁り調べた。
 磁器をつくる窯は有田焼の大日窯(だいにちがま)、砥部焼(とべやき)の梅野精陶所(梅山窯)があった。他にも、河井寛次郎さんの弟子である京都の上田恒次さん、上田さんの弟子が3人ほど、濱田庄司さんのもとで学んだ瀧田項一さん、瀧田さんの窯から独立した4〜5人のお弟子さんが磁器を手がけていた。

 大日窯にはすぐに接触した。そのことは、この連載記事の第55回で述べた。そして10年ほどして梅野精陶所にも足を運んだ。眼にした磁器には、とても堅く、硬質な印象を受けた。分厚く、どっしりとした感じの白磁に描かれる大胆な文様に違和感を覚えたのである。そのため、当初、砥部焼に関わろうとは思わなかった。

 砥部焼の磁器は当時の時代を背景に、クラフト運動に力を注いでいたようで、むしろ民藝以上に広がっていた。東京駅近くの丸善にはクラフトコーナーがあった。

 その砥部焼でまず眼に入るのは、手描きによる大胆な模様だが、何かこれが心を打たないのだ。また、均一なかたちにも風情をあまり感じられなかった。そのため、ますます心が離れていって、10年間くらい砥部焼は自分の店では扱うものではないという認識を抱いていた。

砥部焼によくあるタイプで、河井寛次郎さん系の人が昔はよくつくったかたち。
たとえば、奥田康博さん(この連載記事の第54回参照)が、これを陶器でつくっていた。
やはり、河井先生の影響があるのか、それとも鈴木先生が考えたものなのか、民藝の人が考えたデザインだと思う

初めての訪問

 30年ほど前、山口県徳山の「周防民藝店」経営者、宮崎正裕氏と出西窯で偶然、出会った。年齢が近く、店を始めたのも同時期だったこともあり、親しくなって、九州へ仕入れに行く際は、彼の所によく寝泊まりするほどの仲になった。   
 しばらくして、私は自分の家を建てるのに、瓦を何にしようかと思案していた。その時、伊予瓦を使ってみたいと考えた。学生時代、愛媛の松山を旅した際、この柔らかな瓦に惹かれた記憶が蘇ったのである。それで、私と同じく、この瓦に関心を寄せる宮崎氏と一緒に現地へ観に行くことになった。 
 山口県柳井(やない)からフェリーで松山港に渡り、伊予瓦を見て回った。その旅のついでに砥部に行こうと宮崎氏に誘われた。彼は時々、砥部へ仕入れに行っていたが、私にとっては初めての訪問となった。

 砥部焼を製造する梅野精陶所に行ってまず驚いたのは、これまで関わってきた民陶の窯とは違うスケールの大きさだった。工場規模の大きな作業場がいくつもあって、たくさんの人たちが働いていて、次から次へと生産されていく。ロクロを蹴る人は5〜6人は居た。さらに絵付けする女性たちが一列に並んで描いていた。
 こういった形態には、こじんまりとした仕事を好む私には気持ちがうごかなかった。しかし尊敬する鈴木繁男先生が砥部の指導に昭和30年代から行っていて、その成果を目にしていたものだから、現場でも先生の面影を少し感じたりはした。

 まだ今ほど、私自身の物の見方も確立されていなかった。鈴木繁男先生の絵付けには興味はあったけれど、先生が文様を施した砥部焼には当時、さほど反応しなかったのである。結局、そのときも何も買わなかったが、砥部の実態は理解できた。
 この窯の近くで中田正隆さんという私と歳が変わらない、職人然とした男が小さな窯を開いていた。私は彼のつくる物の方が割と好きだった。中田さんは機械を使わず、手挽きで磁器をつくり、やわらかい調子の釉薬で文様を描いていた。古伊万里がとても好きと、中田さんは話していた。彼はなかなかいいなと思ったが、世代が近いこともあってか、なんとなく突っ張られた感じがした。

これは私好みの砥部焼。
呉須(コバルト)をふーっと吹き付けることで均一ではなく、もやもやとした雰囲気になっている。
それにより、コバルト色の嫌らしさを抑え、コバルトの良さを活かしている。
しかも前面に吹き付けずに、縁の中だけに吹き付けているのが洒落ている。
これも民藝の人、もしかしたら鈴木先生のアイデアかもしれない

準入選の意義

 その頃、日本民藝館展に梅野精陶所から数多くの砥部焼が出品された。「入選」にはあまり選ばれないけれど、ほとんどが「準入選」に選ばれていた。
 その理由を当時の日本民藝館展の担当、田中洋子さん(現在は擁子さん)に尋ねると、梅野精陶所をはじめ砥部焼の窯には富本憲吉さん以来、日本民藝館関係の人が出入りしている。今は、クラフト系の製品が目立つものの、民藝店が扱う物もとても多い。料理店でも非常に多く使われている。しかも、鈴木繁男先生の言うように平常無事な物だからと、田中さんは答えた。
 当時、日本民藝館展の収益には準入選の物の売り上げがかなり寄与していた。それで、「準入選」の物をできるだけ多く選び、館展審査後に「B入選」として展示販売した。このB入選の中から「A入選(入選)」を選ぶという。
 鈴木先生にこうした審査の背景への疑問を投げかけると、「民藝館展で最も大切なのは準入選なのだ。準入選の物はどんな所で売られても現代の民藝として通用する。A入選はその中から技術が卓越したものが、たまたま出てきた物を選び抜いている。このような審査が本来の民藝館展のありようでいいだろう」という話だった。そして、B入選する物を数多く集めてきて民藝館の売上に協力してくれ、よろしく頼んだぞと言われた。
 その話を柳宗理館長にもすると、その通りだと頷いた。館長と最も尊敬する鈴木先生にそう言われたし、当時の担当だった田中さんからも同様の話を伺ったので、民藝館展への関わりが、それからはより深まっていったのである。    
 それからは、民藝館展間近の小鹿田焼の各窯元が一斉に窯焚きする10月にはほとんどの窯を訪ねては出品すべく、なるべくいい物を集めた。私は「もやい工藝」も経営しているから、店の品揃えも兼ねて、館展が終わった時から1年かけて窯出しのたびに小鹿田へ行き、雑器類で販売しやすく、館展にふさわしい物を集めては溜めて、相当数を出品した。
 そのほとんどがA入選もしくはB入選に選ばれた。これにより民藝館が潤うことがよかったし、平常無事な物が今でもたくさんつくられていることを、現代の民藝地図を制作する時にも、示せると思った。砥部焼からも毎年、定番のように館展に送られてくる物があって、B入選に選ばれていたが、砥部焼だけは直接関わることはなかった。

何も無い無地の白。点々が味わいある

色と厚さの理由

 そのうち、鈴木先生と各地へ旅をするうちに、先生が砥部でどのような仕事をしていたかを聞いた。まず分厚くつくらないといけない理由と、なぜあの白色がカリカリと硬質な感じなのかを質問した。

 これは陶質が影響しているのだという。砥部の磁器の土はイオウ分を含んでいるのだそうだ。焼くと、自然と黄色味がかってきて、真っ白にならないとか。 

 先生の話によれば、砥部焼は割れにくいため、明治以降、輸出品としての需要がかなりあったようだ。その製品は巨大な登り窯で焼かれたのだが、焼成すると硫化水素が発生し、黄色味がかってしまう。それを鈴木先生をはじめ、さまざまな方が窯を訪ねて研究して、牛などの骨を混ぜるようになった。これは俗に「ボーンチャイナ」と呼ばれる、磁土に動物の骨を混ぜて白色を出した中国の磁器にヒントを得たのだろう。この磁土は分厚く挽かないと、きちんと成形できないのだという。その結果、重厚感のある焼き物が生まれたのだそうだ。砥部焼はそういうわけで薄く挽くのは難しいということだった。
 ただし、最近の事は私は把握していない。その後、民藝のブームを迎えると、ますます量産化が求められ、梅野精陶所は人を雇った。しかし、雇った人の訓練度が足りないと、追いつかないため、型を用いた鋳込み型の製品が増えていくようになった。型で成形していくのだ。古伊万里もそうなのだが、古伊万里中期以降の焼き物には、ロクロ成形だけでなく、鋳込み成形の物も多く見られる。このことからもヒントを得たのだろう。  

 こうしたヒントを与えたのが富本憲吉であり、鈴木繁男先生であり、鈴木先生と共に活動していた阿部祐工だ。この人たちが砥部に関わり、ずいぶん仕事を教えた。

これが砥部焼でいちばん眼にするパターン。
これは鈴木先生のデザインだろう。
笹の中に押し紋のような点々を付ける。
太陽なのか、山水の文様をうまく採り入れ、表裏を描いている

飲食店で広まる

 当時の社長、梅野武之助さんは経営者として優れた手腕を発揮していた。鈴木先生に指導を依頼すると同時に、時代の先を読む眼があり、クラフト系のデザイナーたちとも関わりがあった。民藝とクラフトの両立てで、昭和30年後半から製品をつくるようになった。

 丈夫で割れにくく、経済も上向きだったこともあって、まず砥部のおひざ元、松山市内の飲食店が砥部焼を使うようになった。価格もそれほど高くなかったし、当時、瀬戸、有田、京都あたりの磁器が全国を席捲していた。とくに有田は若干高いということで、旅館や料理屋用の焼き物がつくられていた。 

 砥部焼は、まず郷土愛から、重たくても地元でつくられている焼き物ということで使われ、また、すべて手描きであることがポイントとなって松山市内の飲食店で使われるようになった。その状況は今も変わらない。

 そして、これらの飲食店で砥部焼を眼にした四国の各県の飲食店にも砥部焼が売れるようになった。すると、瀬戸内海をはさんだ広島県や岡山県の方へもだんだん進出していった。というわけで、非常に数多くの砥部焼が製産されるようになった。

鈴木繁男先生の絵付け

 砥部焼が世間に広まり、この窯の指導に関わる鈴木先生と親しくなっていたけれど、何となく自分の店では砥部焼を扱いたいとは思わなかった。「堅さ」がネックとなったのだ。

 ところが、たまたま盛岡の光原社に行った時、店に置かれていた砥部焼の六角形をした筒花瓶に眼が留まった。これは砥部の特徴的な造形なのだが、かたちそのものより、春夏秋冬を描いた絵にとても惹かれた。この絵付けはまさしく鈴木繁男先生によるものだと思い、購入した。

 この花瓶については、いずれ鈴木先生について2〜3回に分けて語る際に、紹介するので、今回は物を見せない。

 鈴木先生に「先生の描いた物を買いました」と見せると、「ああ、これは僕が描いた物だ。よくわかったな」と先生。どうしてこんな物を民藝店で売るようになったのか尋ねると、「君は全然わかってないな。僕は砥部へ指導にも行ったが、砥部の一工人として働いていたのだ。ロクロはできなかったが、絵付けは懸命にやったのだ」と。

 その当時は鈴木先生が描いた物が普通に売られていたのだ。 「普通に売られていく。それでいいじゃないか。出来が良かろうが悪かろうが、ひとつの製陶所から出来てきた物に対して自分の名前を出す必要は無い。自分はただ、そこで一人の絵付け職人として雇われて描いただけのことだ」と先生らしい言葉に感じ入った。

 そう聞くと、鈴木先生の物が欲しいから、あちこちに古い砥部焼で売れ残っている物をかなり在庫している店があったので、そこへ行っては先生の物が紛れていないかよく探したものだった。しかし、結局は見つけ出せなかった。描いたといってもたいした量ではなかったのだろう。

おそらく鈴木先生がデザインした砥部焼。
酸化コバルトを主な成分とする彩料、呉須(ごす)をさっと引いて、釉薬を掛けているだけの物。
生地は鉄分を含んだ質のよくない土をあえて用いている。
この土はかつて碍子などによく使われていた。
この生地に上から釉薬を掛けると、かえって黒の鉄分が浮き出てきて、嫌味の無い風情が出る。
薄っぺらな雰囲気が抑えられるのである。
現代の砥部焼はきれいに精製して鉄分を除いた後にきちんと絵付けをしているから、何か動きが感じられない。
私たちの心を捉えないのだ

これも鈴木先生のデザインだと思う。
絵がとても上手だから。
コバルトがきれいに発色していない、溶け不足なのだ。
かえってその方が抑えられておもしろい

先生の足跡

 25〜26年前、高知で民藝の夏期学校があり、池田三四郎さんが講師を担当された。池田さんは四国をあまり回ったことがないからと、その直前に案内してくれないかと頼まれた。それで、四国はあまり足を運ばない地域だったが、仕事をつくって四国へ行った。当時は本州からは船で行くしか手立てがなくて、倉敷に車を停めておいて、連絡船に乗って高知で池田さんと合流。レンタカーを借りて、一緒に四国を回った。

 そして、2泊ほどしてから松山に入り、梅野精陶所を訪ねると、梅野武之助さんが出て来られた。梅野さんは昔から池田三四郎さんが営む松本民藝家具の家具を使っていていたので感激していた。

 梅野さんは宝物を所蔵している場所を見せてくれた。そこには鈴木先生の描かれた物がたくさん保管されていた。濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチが描いた物もそれぞれあり、ここに先生たちが来て、絵付けもしていたことがよくわかった。しかし、鈴木先生が描いた絵柄の物が圧倒的に数多くあり、しかも自身でロクロ成形した物も含まれていた。

 その物の迫力に惚れ、感嘆した。それでも、そのまま工場の方へ行き、砥部焼を観ると、やはり何か触手が動かなかった。

 15年ほど前から、愛媛県西条の民藝館が私の展覧会を開いてくれた。その帰りがけに梅野精陶所に寄った際にも、何か無いかなと観ていたら、赤絵の豆皿が眼に入った。売れ残って隅に置かれていたので尋ねると、その皿は鈴木先生が描いた物だった。梅野武之助さんは亡くなっていて、没後、展示室ができ、先生方の足跡がわかるような資料館となっている。中に入ると、やはり鈴木先生の物が圧倒的に多いし、その中の小さな小皿にとても欲しくなる物があった。磁器や陶器であること以前に、物として欲しいと思った。

 その皿の絵付けがいいから、ぜひこれは私の店でも販売させて欲しいと聞くと、現在これをその通りに描ける人はそういるわけではない。このような絵にはならないという。ただ、昔から鈴木先生に付いていた職人がまだいるから、その人ならできると言われた。

 それで、早速注文した。これが初めて梅野精陶所との取引だった。赤絵3寸5分くらいの丸皿を仕入れたことから砥部焼との関わりができた。

これも鈴木先生のデザインで、切立った鉢に櫛描きを施した浅鉢。
民藝の先生がよく採り入れるかたちだ。
縁を少し反らせて、櫛描きを3本、1本と交互に施している。
この櫛描きも3本だけにしてみたり、1本だけにしてみたり、並みのように描いてみたりと、いろいろなパターンをやってみたのだと思う。
縁の内側の、立ち上がりの部分に線描きを施すのに、間隔が詰まってくるとおもしろくないし、間隔を空けると収まりが悪い。
これを1本にして収まりをよくするというのは鈴木先生のアイデアだろう

大量注文が必要

 ところが、他の手仕事の窯元では10〜15枚の注文も受けてくれるのだが、梅野精陶所は一貫した機械生産体制が敷かれ絵付けをするので100枚単位ぐらいでないと注文できない。そのため6種類の皿が欲しいとなると600枚もの注文を出さないといけない。小さな店では一度注文すると、なかなか売り切るのは、どんなに物が良くても難しい。

 それで知り合った店に分けたりして在庫を減らしていくのだが、はけるには何年もかかるのだ。また、仕入れ金額も600枚になるとかなりの額になる。そのため、なかなか仕入れする機会がなくて、2度ほど仕入れたものの、在庫を抱えているから窯へは行きづらくなった。 

 10年ほど前、鈴木先生との思い出への憧憬がこの頃は、いっそう強まって、今一度、窯を観に行くのもいいと考え、手仕事フォーラムのメンバーも連れて久しぶりに訪ねた。

 梅野武之助さんのあと、いろいろ経営者が変わったようだ。

 工場は閑散としていた。地震もあったのだそうだ。日本を横断する活断層のすぐ近くに工場が位置していたため、傾いたままで、前ほどの勢いが無かった。現場でもロクロをする職人を含め人が少ない。おそらく老齢化して辞めた後、人を雇わないなどして、従業員も一気にいなくなったのだろう。それでも磁器づくりをしたいという若い人たちが修行がてら職人として働いていた。

 そんな新しい世代の職人が主としてつくる、最近の砥部焼はコバルトの濃い色で唐草文様を描く物がほとんど。しかも、かなり分厚い。絵付けはクラフト系デザイナーが鈴木先生の後を担当している。その絵付けが砥部焼の現状を示している。

 民藝店も今は勢いが無いため、注文も激減して、クラフト系の絵付けが施された物の方がわかりやすいからと売れている。若い人もクラフト系の方を好むようだ。しかし、相変わらず、工場規模で生産する受注生産方式なので、私どもの仕事の取り組みや状態を説いても通用しない世界なのだ。

鈴木先生が関わったと思われる物。バターケースとして使うのもいいと思う

見識が備わる

 梅野精陶所には大きな販売所があり、以前は団体旅行のバスが着いて観光客が買い物をしていた。最近はあまり見かけない。
 この販売所にはとても感じのよいおばさんが1人いた。普通の販売担当のおばさんかと思い、気軽に話しかけ、「鳥取たくみ」から依頼されていた、磁器の展示会用の仕入れをしようと、販売所に並ぶ物をよく観てみた。
 それまで何度も自分の眼で繰り返し、砥部焼を観てきたことにより、物の見方に変化が生じていた。これならば民藝店に置いてもいいかと、物を選び出せるようになっていたのだ。
 「鳥取たくみ」は私の店とは異なり、ずいぶん前から砥部焼を扱っていたが、注文は電話でおこない、物の選択も先方におまかせだった。しかし、私が選んだ物は、それまでの注文品とはまったく違う物だったので、とても喜ばれ、砥部焼への観る眼が変わったようだった。
 その何年後からは1年に一度は梅野精陶所に立ち寄るようになっていく。九州へ車で行く場合、四国を経由した方がアクセスしやすくなったからだ。淡路島から四国に入れるし、倉敷や尾道からも入れる。松山からは佐多岬へ1時間ほどで行けて、そこからわずか1時間強でカーフェリーに乗って大分県佐賀関に行ける。今は高速道路も発展し、この港から私の店がある福岡秋月までは1時間半で行けるのだ。

 それに四国にはおいしいものが多い。うどんの店だけでも私は30軒ほど食べて回った。それで楽しい旅の途中で必ず梅野精陶所に寄るようになった。

これも鈴木先生のアイデアだと思う。線描きの間隔を空けて、そこに丸をちょこちょこと置いていく

大倉庫の宝物

 そんなある時、鈴木先生が手がけた昔の物は無いだろうかと販売所のおばさんに尋ねた。すると、ほとんど無いと答えつつ、ずいぶん鈴木先生の思い出話を語るのだ。その際、仕入れの値段を調べようと、経理室へ一緒に行くと、みんなが「社長」と呼ぶ。「えっ、あなたが社長なの?」と驚くと、「はい、私は梅野の娘です」と言う。なるほど、どうりで鈴木先生のことをよく知っているわけだ。今まで、失礼な態度で接してすみませんでしたと私は謝った。経理をしている方がご主人で、お婿さんなので苗字が梅野ではない。だから気づかなかったのだ。

 これを機会に、社長と親しくなり、訪ねるたびにしばらく話をしたりした。そのうち、ショールームよりも大倉庫の中から物を選んだりした方がいいということになった。大倉庫に入ると、棚の上にも埃をかぶった物がたくさんあった。倉庫には年輩の担当者がいて、あまりゴソゴソ物を探していると怒られた。

 ふと奥の方を観ていた時、埃をかぶった角形の筒を見つけた。これはまさしく、鈴木先生が描いた物に違いないと思った。

 これは良いと手に持つと、「ああ、それはいけんいけん」と担当者。その棚の上にあるのは社長の許可を得ないと、出せないと言う。

 ならば社長に聞いてくださいと頼むと、「社長に聞いても、駄目だっていうに決まっているよ」と言う。とりあえず、持たせてもらい、水で洗うと、鈴木先生が描いたに違いない絵がきれいに表れた。

 そして、この他にも私の店の夏の恒例展示「涼夏の会」のために物を選び、抜き出した。すると社長が来て、角形の筒を見つけて「これは、一つだけは残しておきたい」と言う。お互いにこれが鈴木先生の絵付けの物だからとわかっているのだが、口には出さなかった。

 とにかく駄目もとで、一応選んでおきますから、よかったら送ってくださいと去った。すると、送られてきた物の中に入っていたのだった。

明らかに鈴木先生がデザインし、描いたと思われる、四つ菱文様の筒。
当時、ずいぶんこういった物が売られたから、民藝好きな人の家には鈴木先生の手がけた砥部焼は広まったと思う。
こういう物は記念品やお祝い事、法事のお返しなどに使われた

良い物を伝える

 砥部焼にこれからどう関わるか、四国全体の焼き物の代表格であるから、私が関わらなくても、こういった物は継続されていくと思う。実際、クラフト系製品などを提案するいろいろな人が関わって、現在、この窯は成立している。ただ、鈴木先生を含めて民藝の同人の方々がかなり力を入れて、この窯の製品を開発していった流れ、成果を、私たちが伝えて必要がある。そのためにはこの物の良さを感じないといけない。

 梅野精陶所の砥部焼は全て良いというのではないが、今回の記事に取り上げた物は私たちの視点では、砥部焼の最上級品だと思う。この範疇から飛び出さないようにしながら、こういった物が当たり前にように出来ていき、砥部焼の存在価値を広めていくのが、私たちの役割である。

 ちなみに私の店では鈴木先生がデザインした赤絵の小皿を、たくさん注文するようになった。赤絵は絵付けが慣れてこないと嫌らしさが目立つのだが、この皿には嫌らしさが出ていない。その違いを知ってほしいから、品切れしたら補充して、現代の民藝品として常時置くようにしたのである。

 こうした取り組みを通じて、鈴木先生が名も無き工人として指導に行き、この窯で生きてきたことに対して畏敬の念を表したい。