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Kuno×Kunoの手仕事良品

京都・三条、内藤商店のこと

京都・三条、内藤商店のこと

2013年8月21日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

棕櫚箒は民藝ではない?

 現在、「民藝の教科書D」(グラフィック社)の制作を進めているが、この書籍では箒(ほうき)やタワシといった棕櫚(しゅろ)を素材に用いた道具を取り上げないわけにはいかない。箒の種類はさまざまで、柄の長い柄箒(えぼうき)、持ちやすい手箒(てぼうき)、それから竈(かまど)の細かなゴミを取るための小さな箒、荒神箒(こうじんぼうき)などがある。
 しかし、実際にはこれらの箒を紹介すべきか、とても悩んだ。民藝品というよりも、実用品というべき物だからだ。民藝品は物のかたち、美しさ、色の模様などが問われる。民藝品の基準、つまりは造形的に素晴らしく、なおかつ実用品であるかどうかという基準に照らし合わせると、果たしてこの箒が当てはまるかどうか迷うところなのだ。まあまあのかたちならば、実用品であっても民藝の物として選べないのである。
 しかし、日本の手仕事がだんだん消えていく現況のなかで、棕櫚の仕事は日本固有の仕事であるからと、結局は取材、掲載することにした。

内藤商店が扱う棕櫚の箒。奥が手箒、手前は荒神箒。火の神様である荒神様がいる竈で使うことから、そう呼ばれる

立派な棕櫚マットを買う

 私はかつて京都の内藤商店において初めて棕櫚の箒を見かけた。鴨川に架かる三条大橋西詰(にしづめ)、三条通りに面した場所に立地する商店。日本家屋の店舗は、間口が狭く、奥行きが長い、京都らしい建物である。学生の頃から内藤商店の存在は気づいていたが、当時は棕櫚箒を扱う店というより、こんな大通りに荒物屋があるのか、という程度の認識しか無かった。看板も掲げていないこの店の中に入って物を選ぶようなことまではしていなかった。
 その後、30年ほど前、北鎌倉で「もやい工藝」を営んでいた時、板の間の店内にお客さんが埃を運んでくることに困り、入口に棕櫚のマットを置こうと探した。車で内藤商店の前を通ったら、分厚い棕櫚のマットが置いてあった。近所の荒物屋で眼にする物とは全く異なる、しっかりとした、いい仕事の製品だった。値段は普通の物の倍はしたが、私の店にはふさわしい物だろうと、購入した。これが、はじめての内藤商店での買い物であった。
 その時、店内で箒も見かけたが、私の店や家では使わないので、手に取るまでには到らなかった。

京都には手仕事の良品が皆無?

その後、日本民藝協会の平成になって手仕事調査が始まり、京都にはどんな手仕事があるか調べたのだが、何も推薦したい物が無かった。作家物や骨董品を好む人が多い京都の民藝協会に連絡しても、京都でつくられている手仕事の良品についての情報は全く得られなかった。京都は日本中でいちばん多く職人がいる街なのに、私たちの視点で見出せる手仕事の物は無いのだ。職人の優れた技でつくられる物はたくさんある。しかし、それらの雅(みやび)で精緻な仕事ばかりなのである。
 これは困ったなと悩んでいたら、当時の日本民藝館館長、柳宗理さんが「京都に何も無いなんてことはない。三条大橋の荒物屋の棕櫚の箒はとても良いじゃないか。この箒を取り上げないのはおかしい」と憤慨。
「いや、かたちがちょっと・・・」と私が顔を曇らせると、「かたちがものすごくいいじゃないか。すごい、すごい」と館長は絶賛し、あれを取り上げない奴は駄目だと。
 そこまで言うのなら、私が店を訪ねて、話を聞いてきますと京都に向かうことにした。館長のほかにも、日本民藝館の理事であり、2008年に亡くなった瀬底恒(せそこつね)さんもまた、内藤商店を気に入っておられた。彼女はコスモ・ピーアールという会社で、日本文化を海外に伝える仕事をされていた。
 海外のデザイナーが頻繁に瀬底さんに会いに来るのだが、京都を案内した際には必ず内藤商店に連れて行ったそうだ。すると、海外のお客さんはみんな喜んだ。とくに建築家、デザイナー関連の人たちはとても気に入ったという。
  両人の推薦もあり、ますます取り上げないわけにいかなくなって、私たちは渋々、内藤商店を訪ねたのだった。
 また、取り上げる物は、デパートで展覧会を催し、販売もおこなうことにもなっていたので、取材のみならず、会場で売れそうな物も仕入れもしないといけない。私はとても気が重かった。

江戸時代から続く老舗

内藤商店では小柄で品の良い京都らしい女性店主が迎えてくれた。彼女のご主人は全然、違う仕事をしていて、自分が7代目として店を継いだという。
 創業は江戸時代の文政年間(1818〜1830年)。この地で商売を始め、初代の主が棕櫚の製品を売っていたそうだ。
 当時、棕櫚は荷物を縛る物として一般だった。今は縄の素材といえば、藁(わら)や麻がほとんど。しかし、棕櫚の方が油分は出ず、滑らず、水にも強いために、随分用いられていたのだ。また、船を水辺につなぎ留める、とも綱にも棕櫚がかなり使われたということで、棕櫚製品を扱う商いを始めたのだとか。
 三条大橋で店を構えたのは、ここが物資の荷揚げ場だったからだ。棕櫚は当時から紀伊の国、和歌山県が産地でより持って来て、それを加工して一手に販売していたという。
 時代が江戸から明治に移行していくと、一般家庭の人たちが日常的に箒を使うようになった。一般の家に畳ができるのは、近代のことである。そういう住空間では埃を払うために箒が普及していった。
 棕櫚は腰が強く、掃きやすく、箒の素材として適している。それで、盛んに棕櫚の箒が盛んにつくられるようになっていった。
 はじめは内藤商店の主も自ら棕櫚で箒を制作していたという。その後、箒が売れるようになると、職人をたくさん雇い、代々店を営んできたそうだ。京都は静寂を求める場所ゆえに日本家屋では箒がよく売れたという。

三条大橋西詰からすぐの内藤商店

看板を出さない理由

 ところが本来は7代目になるはずの男性の主人が店を継がず、その奥さんが店を守ることになった。6代目までは主も仕事が上手だったのだが、電気掃除機の登場という時代の動向のため、箒が売れなくなっていった。その頃には京都市内で箒をつくる職人も減り、郊外に昔から頼んでいる1人のみという状況であった。
 看板が無い理由を尋ねると、6代目以前からの店の理念として、毎日の暮らしで使える良い物を置いてあれば、看板など要らない。黙っていても人は購入するし、1回使って良い物とわかってもらえたら、お得意さんになり、看板など出す必要は無いという強い意識で店を営んできたそうだ。7代目の奥さんもそのつもりでやっていると。
 6代目の主が仕事を辞めると、もうつくる人がいないけれど、自分の代でこの仕事を辞めるわけにはいかないし、辞めたくない。自分の代で辞めたとなると、ご先祖様に申し訳が立たないから、なんとしても続けたい。ただ、もしかしたら駄目になるかもしれないという話だった。
 この店では柄箒が有名だったが、つくり手がいない以上、店の在庫を売ったらおしまいという危うい状態になっていた。
 私はこれらの特徴的な箒を何点か仕入れて、展示会に出品した。ただ、この製品は本来、自分の店以外では売らない。まして他の店に卸すことは店の理念として一度もやったことがないからと、最初は断られた。
 そこで、これまでの民藝の流れを説明すると、柳宗悦先生が店に来られたことを覚えておられた。先代の時代に箒を褒めてくれたと。また、河井寛次郎先生も店によく来られて、箒を買っていってくれたことも7代目は思い起こした。
 ということで民藝に関わる人への印象はとても好意的だったが、その後、民藝関係者が訪ねてくるのは、今回が久しぶりだという。私の以前は、柳宗理さんが外国のデザイン関係者を店によく連れてきていたそうだ。
 自分としては7代目を継いだ以上はこの箒を絶やしてはいけないという気持ちでいるし、民藝の先生との関係もあったのでと、結局は快く商品を卸してくれることになった。私はこうしてこの商店と親しくなっていった。

存続の危機

 その後、私が手仕事日本展を担当し、各地で展示会を催すようになると、京都の物ではこの商店の箒しか無いので、そのたびに買いに来ていた。
 しかし、そのうち2〜3年経った頃、急に店頭から箒の数が少なくなった。理由を聞くと、お抱えの京都郊外の箒職人であるおじいさんが交通事故を起こして仕事を辞めてしまったのだという。自分たちとしては非常につらいのだと。もしかしたら、この商売も続かなくて、他につくり手もいないから辞めることになりますと、きっぱりと言われた。
 残念ですねとなぐさめると、暗い気持ちになっているのだと7代目の声は沈んだ。私はとにかくある物をと、展示会用ともやい工藝用に棕櫚のマットを購入した。その頃、私は「もやい工藝」を鎌倉・佐助に移転したのだが、当初、玄関に内藤商店の分厚い棕櫚マットを置いていた。お客さんは皆、このマットは素晴らしいと驚いた。
 ところが、お客さんの出入りが多いものだから、このマットが半年も保たないのだ。しかも、現在の店内は石を敷いた空間のため、棕櫚の毛が散らばってしまうのだ。それで、このマットを店に出すのは辞めたのだが、質も色合いも良い物だから、本心としては今でも置きたいと思ってはいる。

和歌山の職人に頼む

 それから2〜3年経ってから、内藤商店に寄ると、店にたくさん箒が掛かっていた。驚いて主のお母さんに聞くと、本当は京都の職人に頼みたいけれど、京都にはもう職人がいない。商売を辞めるわけにはいかないので、和歌山県にいることは聞いていたので、和歌山のつくり手を探し、何人か出会えた。その中でつくり手を絞り、制作してもらい、店にこうして置いているのだという。
 そのとき、つくり手の名前は明かさなかったが、柄箒や手箒をつくる人と、荒神箒だけをつくる人と、タワシだけをつくる人がいて、この3者にお願いして物を送ってもらっているとのことだった。
 私はよかったですねと言いつつも、自身でつくり手を探ろうとまでは思わなかった。この物自体のかたちには造形的な美しさはあまり無い。しかも、銅線で縛っている点が何か引っ掛かる。それから柄の黒竹(くろちく)に対し抵抗があるのだ。
 民藝の美の視点からすると、素材感はあっても、縛っていく道具だとか、竹使いが、あえてつくっているような雰囲気があり、自然性を感じないのだ。実用品で素晴らしい物だとわかってはいても、自分としては民藝の範疇にこの物が入らなかったのだ。ただ、京都の庶民的な手仕事としては唯一の物として取り上げていたのである。

つくり手を調査

 そうこうしているうちに、新聞に載っていた、制作者の顔を出して物を通販するソニーファミリークラブの広告に、和歌山県海草郡紀美野町(きみのちょう)野上谷(のがみだに)で桑添勇雄(くわぞえいさお)さんという人が棕櫚箒をつくっていると書いてあった。野上谷で昔から棕櫚箒をつくっていたことは文献などで知ってはいた。しかし、ここでつくられていることが具体的に紹介されていたこと、さらには通販される箒が内藤商店に並ぶ物と同じような製品だったので驚いてしまった。
 その後、しばらくして野上谷を訪ねたいと思いつつ、行くチャンスが無かったが、手仕事フォーラムを結成して間もない頃、やはり現地に足を運んでみようということになった。
 たまたま、フォーラムメンバーの大部さんが和歌山で暮らしていて、棕櫚製品を好んでいたので、一緒にはじめて野上谷を訪ねてみることにしたのだ。
 現地では、この地域につくり手が何人もいることがわかった。それぞれの人を訪ねると、おのおのが他のつくり手のことは口に出さないし、つくり手どうしはうまくいいっていないような空気感を醸し出していた。ただ、その中でも、桑添勇雄さんはとても人柄がよさそうで、奥さんが手伝いながら細々とつくっていた。
 その後、再訪してみると桑添さんの所で若い女性が仕事をしていた。以前はデザイン関係の仕事をしていて、手仕事の仕事に関わりたくなって、ここに弟子入りし、いずれは独立するつもりなのだという。この女性はその後、結婚。独立し、山奥で仕事をしている。

制作者への心遣い

 この2度の訪問の際、つくり手の皆さんにどこと取引しているのか聞いても、一様に教えてくれなかった。唯一、タワシをつくっているIさんだけは、自分がつくる物のほとんどを内藤商店に納めていると答えてくれた。
 Iさんに納め始めた時期を聞くと、ちょうど内藤商店が和歌山に注文を出し始めたタイミングと一致していた。7代目の方とお話して、とても立派な方だったので、つくった物は全部、託すことになったとIさん。
 彼が驚いたのは荷物が内藤商店に着くや否や、その翌日には速達で現金書留により代金が送られてきたことだったという。しかも、送金のたびに必ず丁寧な文章で「大事に仕事をしていってください」と一筆添えられていて、中の現金はすべて新札。端数の細かい硬貨までも新しいお金だったという。物を送れば、すぐにきれいなぴかぴかの硬貨と新札が届くことが嬉しいようだ。
 新札を手に入れると、すぐに使いたくなる人と、使わない人の両方がいる。制作者はたいていが使わないタイプである。貯めてしまうのだ。だから、無駄なお金を使わせないという効果ももしかしたら狙っていたのかもしれない。  
 内藤商店からは時々、食べ物なども送ってきてくれるそうだ。取引の金額は単価の安さから大きなものではないにも関わらず、とても親切で優しいと伊沢さんは感激していた。

老舗のプライドと健全な商い

 商人としての、きちんとした対応をしていることを知って感心し、内藤商店を再び見直した。京都の中でも7代も老舗が続いていく大きな理由のひとつが、老舗としてのプライドと威厳を常に持っているということなのだろう。
 店を続ける上でかけがいがないのが制作者の存在である。その制作者をいちばん大事にするということは、手仕事の良品を扱う私自身、さらには私たち手仕事フォーラムとしても、とてもたいせつなことであると思う。
 近頃、流行の横文字のショップの人たちは制作者を大事にするようなことを言って、制作者の展示会をしたり、制作者の名前を前面に出したりする。若い制作者はそれに乗っかってしまう。東京や大阪など都会の中心でイベントみたいなものを催すと、つい若い人たちは乗りたがるのだが、よく聞いてみると、ほとんどが物を貸して売れなければ返品されるシステムになっている。要するに、委託販売なのだ。売る側はあくまでつくる人を利用して体よくやっているだけだ。
 ところが、内藤商店のような店は全部買い取り、支払いもきちんとしていて、正統なつくり手と売り手との関係を持っている。
 売り手自身にそういう骨格があるから、よいお客さんが必ず来る。京都だけではなくて、各地から、あるいは海外から訪ねて来る。これは商いのやり方として健全だと思う。
 内藤商店を取材していた時、7代目はこう言った。「3人の和歌山のつくり手を知ったことで店を継続できる」。私はその言葉に深く感銘を受けた。

消えた棕櫚の木

 今もつくり手は多く仕事を続けている和歌山だが、棕櫚は和歌山周辺では無くなってしまった。
 和歌山では昭和30年代から山に杉やヒノキを造林のために植えていたが、紀州杉や紀州ヒノキというブランド名で出荷する木がお金になることがわかると、次々と棕櫚など山の木を伐って植えていった。気候的には棕櫚の木が繁茂している地域だったが、それらをみんな伐ってしまい、やがて無くなってしまった。棕櫚の木は管理しないで放置していくと、すぐに廃れてしまうのだそうだ。
 それで今は中国の棕櫚が用いられることが多いという。国産の棕櫚と謳っていても、本当に国産なのかはわからない。
 ただ、1500人ほどの棕櫚細工をする人たちのほとんどは、かつて採った棕櫚を自分の家で保管していたために、まだ地元産の材料が残ってもいるそうだ。棕櫚は腐るものではなく、置いておけば、いつまでも保つのだとか。焼いてしまった人が多いけれど、持っている人もまだいるのだという。
 国産の棕櫚は現在、採れないが、昔、あった物を集めて、つくれば、国産の棕櫚細工ができるというわけだ。

伝統を守るために

 日本の伝統的な優れた手仕事を守り伝えていくには、つくり手だけではなく、きちんとした売り手の存在も重要である。先日、内藤商店を再訪した際には、7代目のお母さんのかわりに、8代目となる30代のご婦人が店にいた。
 彼女のご主人も勤め人のため、8代目とはならなかった。さらに彼女の子供である小学6年生の子がたまたま帰宅して、私にきちんと頭を下げた。その子はしっかりとした顔つきをしていた。この家ではとても厳しく子供を育てていると感じ、9代目も安泰と感激した。そして、伝統を継いでいく家の性質の大切さに思いを馳せたのだった。たとえ9代目が他の仕事をしても、きっとその奥さんが継ぐだろう。
 ただ、つくり手がいなくなるのが問題だ。桑添さんの所に若い女性が入ったことがきっかけで、息子さんが仕事を辞めて跡を継ぐことになり、なかなかの仕事ぶりなのだそうだ。だから桑添さんとよい関係を保っている内藤商店も8代目まで続くことは確かだし、私たちの努力でまた新たなつくり手が出てくれば、きっと内藤商店が伝統を守っていくのではないかと思う。
 私たち民藝の立場ではどうしても物のかたちに惹かれるために棕櫚箒からはどうしても心が離れてしまう。こういう優れた手仕事を大事に守っていくということについては、内藤商店の商いのあり方は尊いことだと思う。
 この店もまた、小鹿田のように、厳格で一子相伝であり、長男が継いで、次男は家を出ていかないといけない。街の中においても伝統はそうして継がれていく。老舗は厳しさの中で戦い、守られていくのである。物を絶やさず、維持しなくてはいけない。そのためには物をつくっている人を大事にして、育て、跡に継ぐようにしないといけない。それが自分の店を守ることにつながる。
 お客さんに親切丁寧に物の良さを説明している内藤商店の当主の姿を見て、私も見習わなくてはと思った。