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Kuno×Kunoの手仕事良品

倉敷緞通に生涯を捧げる瀧山雄一君

倉敷緞通に生涯を捧げる瀧山雄一君

2013年9月25日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

民藝人の住まいに敷かれる

 私が経営する、もやい工藝を北鎌倉から現在の鎌倉佐助へ移転したのが昭和62年(1987年)のこと。店を拡げたこともあって、住空間を豊かにする物、器やカゴのみならず、織物など身の回りの美しい物を扱っていきたいと考えていた。

 これまでの15年間ほど民藝関係者との付き合いが深まり、彼らの住まいを頻繁に訪ねていた。どの家にも玄関マットとして、赤と紺と生成の三色を主にした色分けのものや、紺一色の物など雰囲気のよい倉敷緞通が敷かれていた。

 居間では1畳の緞通の上に松本民藝家具のテーブルが置かれる。富山県八尾の民族工芸館では6畳の大きさの藍色で無地の緞通を見かけた。緞通のある空間は、そのものが民藝を現しているようだった。  この仕事に入ったとき、緞通に興味があったが、販売に関しては心が動かなかった。その理由はデザインが登録された、カタログ製品であることもある。クリエイティブにいい物を復刻させようとする私の方向性とは、製品のタイプがそぐわない。固定された物を扱うことへの抵抗を感じたのだ。

 ところが、店が広くなってからは、空間のなかに倉敷緞通を置きたくなった。同時に、店と合わせて新築した自分の住まいに3畳敷きくらいの紺色の倉敷緞通を敷きたいと思った。

私の自宅玄関に敷いている倉敷緞通

メーカーを訪ねる

 まずは自分の住まい用に倉敷緞通を採り入れたのだが、緞通という名の絨毯という程度の認識しかなく、倉敷緞通そのものを深く考えたことがなかった。名前から倉敷でつくられていることはわかっていた程度だった。

 そこで、倉敷ガラスの小谷真三さんとつきあい始めていたこともあり、彼の工房を訪れた際、、日本筵業(えんぎょう)という倉敷緞通を扱う会社を訪ねることにした。

 この会社には大きな機械が何台もあって、職人もたくさん働いていて、バタンバタンという機械織りの音が響いていた。当時の私は手仕事であることに固執していたものだから、物の善し悪し以前に、機械による生産に対してしらけてしまった。 

 ただし、物を観ると、とても気持ちのいい物のため、新築になった我が家の玄関マットにこれが欲しいとか、居間には2畳敷きくらいのを買って、その上にテーブルを置いてみようかと選び始めた。さらには、店の販売用にと自分の好きな柄を紺色主体で3パターンほど選んだ。開店前には注文した物を送ってもらい、自分の家に敷くと、うまく住空間に収まった。

物品税に惑う

 そして開店間際のこと。突然、税務署の人が来て「日本筵業と取引されていますね?」と尋ねられた。「はい」と答えると、取引の内容を教えて欲しいという。自分への調査だと思い、正直に答えていくと、この会社の物を店で売ったのではないかと問い詰めてくる。まだ、開店前だし、販売もしていなかったので反論すると、仕入れた日と、過去に仕入れたことはないのか、聞いてきた。今回が初めての仕入れであることと、販売していないことを確認すると、税務署の人は帰っていった。

 その数ヶ月後、開店して、いよいよ緞通を販売しようとしていたときに、日本筵業から分厚い書面が届いた。封を開けると、いきなり、この仕事を辞めますと書いてあって驚いた。とある事情で仕事を続けられなくなったので、会社を閉鎖することにしましたとのこと。さらに、販売した緞通に対して、メーカーと販売者に物品税がかかるという。緞通は絨毯、つまり贅沢品としてとらえられ、一律物品税がかかるのだと私の店の顧問税理士に教わった。書面を読む限り、日本筵業は緞通が贅沢品ではなく、日用品と考えているようだと税理士。税務調査する側からすると、緞通が絨毯か否かが重要なのだ。こちらが絨毯だと口に出してしまうと証拠になり、物品税を払っていなければ、過去に遡って徴収されるという。しかし、販売していなければ払う義務は生じないからと、店では売らず、自分の家で使うためにと保管しておいた。

ギャラリーで出会う

 そのうち、平成5年(1993年)に私は倉敷民藝館賞をいただき、授賞式で倉敷を訪ねた。そのとき、私と同世代であり、ギャラリー運営とクラフト製品の販売をおこなう「クラフト幹(みき)」の女性オーナー・三宅幹子さんが「倉敷民藝館賞を受賞したのなら、うちで久野さんの展覧会をやりませんか?」と声を掛けてくれた。倉敷民藝館に確認をした上、私はその話を受けて展覧会を催すことになり、2年に1度「日本の手仕事展」というタイトルで今も続いている。

 その最初の展示の打ち合わせで店に足を運んだら、店内になぜか緞通が掛けられていた。「あれっ、昔の物を売っているんですか?」と聞くと、いや違うと。最近、瀧山雄一さんという若い方がこの仕事に取り組み始めて懸命にやっているので、うちも扱っていきたと思っているとのこと。

 当時は、さほど緞通への関心がさほど強くなかったため、この話しを聞いても「それはよかったですね」と答えて終わってしまった。もやい工藝では焼物、ガラス、カゴとザルが主体、ほかには染織関係はインドの手染めのリーズナブルを置くくらいだったためだ。

 2年おきの展覧会のたびに緞通を目にして、仕事が継続されていることに感心しているうちに瀧山君と知り合うことができた。瀧山君の展覧会をクラフト幹で催していたのだ。

 会場で会ったとき、なかなか眼光が鋭くて、いかにも社会に対して突っ張って生きていこうというタイプで、おもしろい奴がいるなと感じた。それでも、自分では緞通を仕入れるつもりがなく、ただ頑張ってくださいと声を掛けた。こうして展覧会のたびに瀧山君が手がける仕事が順調でだんだんと広まってきていることがわかった。

 それからだいぶ経って、平成10年だったか、鳥取民藝美術館と鳥取たくみ、割烹たくみの顧問を私が担い、指導のために通っていた縁で、鳥取民藝美術館で工人の会を催そうと考えた。つくり手の人たちを呼んで、これから仕事をしていく上で何が大切かを語ってもらおうと計画したのだ。この会で倉敷からは小谷真三さんのほかにも誰を招こうか思案したとき、瀧山君のことを思い出した。それで、クラフト幹さんから声を掛けてもらった。

 瀧山君は会に来て、他のつくり手の熱意や仕事の方向性に驚き、大きな刺激を受けたようだ。自分もこれにより、かなり仕事への強い意識を持つようになったと後に彼は語っている。そして、私もこの会以降、倉敷で何度も瀧山君と会っているうちに、自然と親しくなっていった。

 彼は懸命につくった緞通を自身で販売をするが、小売店にはなるべく出さない方向だった。1人で制作していて、つくることができる数に限りがあったからだと思う。

倉敷緞通の織機
写真/門田真記子

手仕事展で取り上げる

 その後、手仕事フォーラムを立ち上げたとき、彼はいち早く入会してくれた。活動に興味があるからと、積極的に参加してくれるようになったのだった。

 私は各地でフォーラムと同時に、日本の手仕事展を各地で催すようになった。この手仕事展では岡山県の代表的な物を出し、柳宗悦の著書「手仕事の日本」に登場する物を再興しなくてはいけなかった。この本では倉敷緞通が当然、紹介されている。芹沢C介が緞通のデザインをしていることもあり、緞通の生まれがその理由である。

 昔からイ草栽培が盛んな倉敷周辺。そのイ草を素材とする花むしろなどイ草製品を海外向けに生産していたが、イ草製品の輸入をアメリカが規制。その対抗策として開発されたのが、イ草を紙で覆い、絨毯のように織り上げた金波織(きんぱおり)。倉敷緞通の前身となる、この金波織に眼を留めたのが、柳宗悦だった。芹沢C介の意匠である縞柄が金波織の表地に施され、手仕事の温かみを帯び、どんな家具にもフィットするものとなった。「倉敷緞通」の誕生である。この倉敷緞通は昭和8年(1933年)から昭和61年(1986年)まで、日本筵業により製造されていくのであった。

 そんな背景もあって、手仕事日本展で倉敷緞通を取り上げないわけにはいかない。しかし、瀧山君には抵抗感もあった。というのは、彼は自分で販売するつくり手のため、デパートなどで展覧会をすると、当然マージンが発生し、掛け率の問題から価格を高くせざるを得ない。自分のつくった物の価格が高くなることに彼はとても抵抗があったのだ。そこで、利益は出ないけれど、赤字にはならない価格設定を検討してもらった。

 これも、営業利益のためというのではなく、社会的な使命感を強く感じて仕事に打ち込んでいる、彼の方向性を現すエピソードだろう。

 また、私に対しても展覧会で手仕事を広く紹介していこうという気構えをもって望んでいることを理解してもらえ、親近感を抱いてもらえたと思う。瀧山君はそれからいっそう手仕事フォーラムの活動に深く関わるようになり、とても重要なメンバーのひとりとなった。

ループ状のリング糸をつくる
写真/門田真記子

手仕事フォーラムでの縁

 6年前、盛岡の光原社で手仕事フォーラムの全国的な集まりを催した際も瀧山君は参加してくれた。そして、この会で彼は鳥取たくみのスタッフである加藤直子さんと知り合った。加藤さんはおとなしい子なのだが、物を観るのがなかなか好きで、感性的に豊かな人。鳥取たくみも、いずれは経営を若い世代が担っていくようなときを迎えたときに加藤さんがいてくれたらと、私も彼女の存在を大事に思うようになっていた。それで、集まりのたびに、なるべく彼女を呼ぶようにしていたのだった。その加藤さんと瀧山君は互いに惹かれ、結婚することになった。

昔は横から糸を入れる人が必要だったため、2人での作業だったが
機械を改良し一人で作業ができるようになった。
写真/門田真記子

理想的な工人

  瀧山君が制作する物は昔ながらの織り方を履修している。本来は数人で大きな織機で向かわなければできない仕事なのだが、それを1人でおこなえるよう工夫している。

 また、素直に芹沢が起こしたデザインをその通りに継承。彼なりに新しい意匠も考えるが、様にならないという。それほど芹沢の意匠は強い。完徹されていて、動かせない。いじろうとしても、なかなか自分のものにはならない。色を変えたり、模様を変えるだけでは、これ以上ない収まりがある芹沢の意匠を超すのは大変なこと。

 逆に、それができたとつくり手が喜んでも、観る方からすれば、何か違和感を覚える。それで、やはり素直に、逃げ場の無い仕事をずっと繰り返している。 

 瀧山君はこれで名声を得て、作家的に価格を高くしていくというタイプではない。あくまでつくって、必要とする人に売っていくことの悦びをもつ。私たちが理想とする職人の立場を貫き、筋の通った生き方をしている。

 しかも、まだ40歳代。彼の仕事ぶりを、何が大事なのかを、日本中の手仕事の継承者たちは観てもらいたい。いきなり有名になって、ベンツに乗ったり、豪邸を建ててみたり、遊び歩くことを理想とするのではなくて、工人の立場を自分でつくりあげて、その立場をきちんと守る。仕事の悦びを通して、つくっていく物の存在感を当たり前のようにして生きていく。これが私たちの理想とする工藝社会のひとつの道になると思う。

 注文に追われているわけだから、値段を倍にすれば、倍の所得が得られる。値段を上げても注文が減ることはないだろう。しかし、人が使うには妥当な金額がある。それをきちんとわきまえながら、この仕事をしている。これは大切なこと。そういう意味でも彼の仕事はいい。ずっと私たち手仕事フォーラムの仲間でいてもらいたいなと願う。

織機にむかう瀧山さん
写真/坂本光司