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Kuno×Kunoの手仕事良品

沖縄、奥原硝子その後 ペリカン・ピッチャーのつくり手が亡くなる

沖縄、奥原硝子その後 ペリカン・ピッチャーのつくり手が亡くなる

2013年10月28日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

 この連載記事の第4回で、沖縄・那覇にある奥原硝子製造所の代表であり、職人の桃原正男(とうばら・まさお)さんが吹くペリカン・ピッチャーの話をした。

 ペリカンのくちばしのような、注ぎ口が細く尖ったかたちをしたピッチャー。当時はまだその存在が知られ始めた時期だった。しかし、今や飛ぶ鳥を落とすような勢いで売れ、奥原硝子の看板製品になっている。

 桃原さんは3年ほど前、急に亡くなられた。たまたま私が沖縄へ手仕事フォーラムの旅をしていて、帰る日のことだった。その日、突然、工房から連絡が来た。伺ったら、病院から出棺し、ご自宅に戻ってこられていたため、最後のお別れをすることができた。

 実はその3年ほど前から少しずつ仕事ができなくなり、1年半前からは病名も伏せたまま入院。誰も面会できなかった。桃原さん自身の意思だと思うが、元気だった姿を見ていた人に、今の自分を見せるのがつらかったのだろう。

 このペリカン・ピッチャーのオリジナルはイタリアの工業製品である。それを倉敷民藝館の館長だった外村吉之介さんが見出して、「少年民藝館」という本に紹介した。

「少年民藝館」で紹介されたイタリアの工業製品

再生のいきさつ

 故外村吉之介は同じ物をどこかでつくれないかと考えた。倉敷ガラスの小谷真三さんにも打診した。しかし、小谷さんは自分の吹き方では、こうした規格的な形態の物はできないと断られた。

 それで、その当時、民藝と関わりが強まってきた北九州の村上硝子に吹いてもらった。この工房が使う材料は原料ガラスだったため、均一的な物が出来上がってきた。何か機械製品をそのまま手仕事で真似ると、どうもぎくしゃくした感じがあって、おもしろい物ではなかった。注ぎ口の部分が難しいのだ。手で吹く仕事では、大きな口になってしまった。私が村上硝子との仕入れ関係が出来た当時、既にこのピッチャーはあったが、私の眼にはとまらなかった。その理由は、そのかたちがあまりいい姿だとはみえなかったからだ。そのうち、しばらくすると村上硝子も老齢化した職人が退職することで廃業してしまった。

 そして、村上硝子が外村氏によって試作した始めの頃のものを持っていた外村ひろさんから私は見せてもらう機会があり、懐かしくそこで思いついたのが、名工桃原さんに再生ガラスで吹き直してもらったらどうかと考えた。取り組んでみると、再生ガラスとこの造形がとてもよく合い、桃原さんの高い修正技術によって、現在のかたちに行きつけたのである。

 つまり、ペリカン・ピッチャーは外村吉之介さんが見い出し製品化し、私がそれを改良、優れたつくり手である桃原さんによって初めて成就した物だということとなる。

 最初から「現代の優れもの」だったわけではないことを知ってほしいのだ。

奥原ガラスでつくられたペリカンピッチャー

強いリーダーがいなくなると・・・

 桃原さんが亡くなって、奥原硝子はどうなるのか危惧していた。しかし、桃原さんが仕事場に立てなくなっても、仕事は続けていたので、安心もしていた。

 当時は1968(昭和43)年生まれで1995(平成7)年に入社した18年選手の上里幸春(ゆきはる)さんという男性と、中村さんという女性のベテランの吹き手がいた。桃原さんもずいぶん以前から、自分がこの仕事をできなくなっても、この2人がいるから工房は安心だと言っていた。両人に託していたのだ。

 ところが、桃原さんという強い統率者がいなくなると、内部でも仕事の段取りから、中村さんが女性であり家庭を持ったことも重なり工房を去ることになった。

 奥原硝子をはじめ、ガラス工房はチームワークで製造する。理想的には5人だそうだが、チームでローテーションを組みながら仕事をしていく。これが理想形なのである。そのチームの中でも手早い仕事ができた中村さんが不在となったのは痛かった。すると、本土あるいは地元から修行に来ていた人たちも仕事が続かなくなった。5人が4人に減ったり、もしくはまったく仕事できない人が入ってくるとチームがまとまりにくくなるのだ。  そんなことで2チームから1チームに減り、製造量が激減。以前の半分近くにまで落ちた。

 ただ、上里さんがとても責任を感じて、仕事を懸命にしているため、私たちも注文の遅れは容認し、つきあい続けている。

作業をする故桃原正男さん

一族で工房を再生

 桃原さんは沖縄のガラス工人たちへ相当な影響力があった。それで、主軸を失ったことで、工房製品よりも、個人的な仕事の流れの方が強まり、そういうつくり手が増えてきてしまった。ある意味では沖縄の再生ガラスの仕事は不安な部分もある。そんな状況でも奥原硝子は以前と変わらぬ仕事を続けている。変わらぬ仕事から職人が育ち、上手になってきた。

 1978(昭和53)年生まれ、現在35歳、入社したのが20歳で15年選手の桃原さんの甥っこの桃原正樹(まさき)君が上里さんの片腕となった。この男性2人がしっかりしてきた。これが奥原硝子の希望である。上里さんは桃原正男さんの妻の姉が母親。つまり、正男さんは伯父となる。

 また、正男さんの次女、美佐子さんが平成5年頃から手伝いがてら仕事に関わっている。さらに宮古島出身の久貝一博(くがいかずひろ)君も手伝っている。久貝さんも、正男さんが祖父にあたるそうだ。20歳のときに入社したのだが、小さい頃から工房の近所に住んでいたため、桃原さんに目をかけられて、ガラスをやれと言われていたらしい。現在の奥原硝子はこういう一族的な構成メンバーなのだ。

 また、久貝の同級生である長岡直希(ながおかなおき)君も工房に加わった。

  全員が桃原家の関連の人で固め、一族で仕事を再生したのである。仕事ぶりは変わっていない。桃原正男さんのような統率力と機転が利く営業力がないだけで、みんな黙々と仕事をしている。

 統率力のある人がいなくなると、タガが緩んだり、製造の方向が変わったりしがちだ。しかし、桃原正男さんが常に職人としての生き方をずいぶん教えていたために、仕事がきちんと継がれていったのだろう。 

 ガラスはいろいろなかたちに吹けるが、工夫をしなくてはいけない。その制約があるから、個人で仕事をもっていくには、自分によほどのものを科していかないと難しい。奥原硝子は、卓越した仕事ができる人、あるいは、ガラス工芸に憧れ、個人を目指そうという人が入ってきているわけでもない。血縁関係のある人たちが桃原正男さんの切り拓いた再生ガラスの道を堅持して、黙々と仕事に取り組んでいる。このことはとても大事だと思う。

 ただ、難しいのは販売面である。桃原正男さんは販売することも幼いころから知っていたので、社長としてこなすことができた。しかし、今の仕事をしている人は職人としてずっと育ってきているため経営や営業にとても疎い。そういう仕事に就いていない人が社長になって、仕事場と離れた所で経営している。

 となると、工房との間に隙間風が入ってくる可能性があるのが心配である。