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Kuno×Kunoの手仕事良品

伝統を守り続ける瀬戸本業一里塚窯

伝統を守り続ける瀬戸本業一里塚窯

2013年11月27日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

焼き物が生まれたところだけれど・・・

 「日本の焼き物のあけぼの」とまでいわれている愛知県瀬戸市。日本における陶磁器の発祥地である。その焼き物は「瀬戸物」と呼ばれ、全国に知れ渡る、日本最大の焼き物の産地だ。
 ここでは国内・海外向けの洋食器をつくり、さまざまな地域に陶磁器と陶土を供給している。しかし、あまりにも民衆に寄り添う容器を手がけたために、健全な物を少数生産するのではなく、大量生産を求める要望に順応してきた。そのために企業努力をして、ノリタケなど有名なメーカーに対応した、普通の工業製品の大産地なのである。
 また、何代にもわたって焼き物をつくってきた窯元が家業を守るために、個人の才能を重視して作家的な方向も顕著である。40〜50年前から日本の生活形態が安定したことで、産業とは別個に、美術系の学校や訓練学校を出て個人作家を目指す人たちが瀬戸に現れてきた。
 さらには現代陶芸や日展系など、いろいろな物をつくる人もたくさん入ってきた。瀬戸には窯業学校がたくさんあり、卒業生の多くは作家の道をたどっていく。このような状況が今日の瀬戸にはあって、とても私たちが関われるような要素は無く、暮らしの良品を見つけることが難しい。

昔ながらの仕事を守る窯もある

 そんななかで、約300年前から昔ながらの瀬戸を一貫して守る手仕事をしてきた窯が現在は2つある。2つとも同じ名前で、瀬戸本業窯という。瀬戸の仕事をそのままにずっと続けているから「本業」なのである。窯のある地域が本業地区といって、もともとは同じような物をつくっている窯がたくさんあった。
 しかし、いつの間にか、6代目(現在のひとつ前の代)の水野半次郎さんという窯だけが残った。とてもインテリな人で物の見識もあった。民藝の著名な先生たちとも接する機会もできて、柳宗悦が唱える器づくりには瀬戸では唯一、関わってきた。
 私の恩師である鈴木繁男さんはずいぶんこの窯に行っては模様を描いたりしていた。その頃には繰り返しの仕事ができる優れた職人も多数いたようだ。
 この窯での仕事は分業になっていて、ロクロ師と絵師とに分かれて生産量も多かった。やがて水野半次郎さんが高齢になると、時の流れで、日用品の価格も上がってきた。そのため、水野半次郎という名前でお茶碗をつくり、いわゆる民藝の作家と呼ばれる方向へ進んでしまった。この人自身の能力が高かったこともあってできたことだった。

美しい陶土に恵まれた土地

 私がこの仕事に入った38年ほど前に訪ねたときには、水野半次郎さんがつくる物は素晴らしく、古典的な釉薬を復活させたりして、しっかりした仕事をされていた。意義のある窯だと私は観ていた。ただし、焼き物の値段が少し高くて作家物の部類に入っていた。
 当時は大きな登り窯があったが、この窯を維持できず、既にガス窯に切り替わっていた。大きな登り窯で焚くには燃焼効率のよい赤松の薪を大量に必要とした。瀬戸の陶土は1300℃でないと焼けないからだ。
 赤みの無い、つまりは鉄分の無い瀬戸の陶土は土灰を掛けると、それだけで美しい模様、色彩が出た。そのため、多彩な釉薬を掛ける必要が全く無い。透明釉と瀬戸黒といわれる黒い釉薬をせいぜい掛けるくらいだ。
 水野半次郎さんは昔あった織部(おりべ)という緑釉や鬼板(おにいた)という飴色の釉薬を用いた三彩模様の焼き物を手がけたこともあった。さらに鵜(う)の灰釉という名の釉薬を考えてつくっていた。これは稲を灰にして用いたもので、とても白濁した品のよい色が出るのだ。
 こういった釉薬を駆使して白味の強くて美しい土に透明釉を掛けて、還元炎で焼くととてもきれいな緑色が出る。また、酸化炎で焼くと黄瀬戸(きぜと)という淡いクリーム色の色が出る。陶土も釉薬も恵まれているのは、周辺の土地が豊かだからだ。

昔ながらの瀬戸の無地の石皿(写真/横山正夫)
※参照:手仕事フォーラム・ホームページ連載記事
「昔の物 今の物」第50回

呉州と鉄で鶴が描かれた石皿(写真/横山正夫)

瀬戸の馬の目皿 (写真/横山正夫)

瀬戸の絵皿(写真/横山正夫)

動かしがたいかたちを利用

 瀬戸本業窯がつくる大こね鉢や睡蓮鉢はとても品がよくて、しっかりしたものだった。瀬戸は平安時代から続く窯だから、その歴史の中で動かしがたいかたちのものを利用して新作づくりを試みたのである。その点で水野半次郎さんとこの窯には大変な功績を残した。
 38年ほど前の瀬戸本業窯への訪問は、盛岡の「光原社」での展示のための品物選びという目的があった。そのとき窯にはコバルトの絵が簡素に描かれた、高台がしっかりとした碗がいくつもあった。安価なドンブリだろうと思い込み、それらを40個ほど値段も聞かずに発注した。ところが実際には値段が想像より一桁違う茶碗だった。私の眼では、とても茶碗には見えなかった。このときの印象が残り、水野半次郎さんの名声とつくられている物を知りながら、やや離れて、ずっと縁が遠い状態だった。

分家への偶然の訪問

 その後、13〜14年前にもやい工藝の社員旅行で瀬戸、美濃、常滑、伊賀、信楽を訪ねた。その際、久しぶりに水野半次郎さんの本業窯に行った。街の様子がだいぶ変わっていたため、だいぶ迷いながら車を走らせていると、本業窯の大きな看板が目に入った。登窯・登録文化財と書かれていたので、ここだと中に入って行った。
 ところが前に訪ねた所と中の様子が違うのだ。まず、窯の規模が大きいし、工房の雰囲気も異なる。戸惑っていると、中から30代後半くらいの男性が出てきた。その若者は1960年生まれで水野半次郎さんの甥、水野雅之さんだった。水野半次郎さんのもとで修行したのち、本業窯の分家である実家の一里塚窯を受け継いだという。本家は少し上にありますと雅之さん。誤って分家の方に入ってしまったのだが、まずは分家を見てから本家に向かおうと考えた。
 中を覗くと、今どきの焼き物ばかりで、目を引くような物は無くて、がっかりした。早く帰ろうかと思い、工房の中へ入って行った。そこは瀬戸の昔ながらの形式の大きな工房だった。片隅には昔つくった物が山のように積んであった。そこには瀬戸本業でつくっていた、無地の石皿やご飯茶碗など欲しい物が積み重ねられていた。これはなかなかいいと驚いた。これらをどうしてつくらないのかと聞いた。いや、こんな物は今、つくっても売れないし、本家ではつくっているけれど、販売はなかなか大変だという。
 そんなことはない。もっとつくってみてくださいと私は頼んだ。そして、雅之さんに実際に皿をつくっているところを見せてもらった。昔は蹴りロクロでつくっていたけれど、そのときには電動ロクロを用いていた。その手つきはよくて、ロクロ仕事が上手だなと感じた。

昔の日用雑器を復刻

 これから古典的、伝統的な日用雑器を注文したら、やってくれるかと聞くと、もちろん、注文を受ければやりますという。そこから昔話を聞いたり、分家した理由を聞いたり、彼のつくっている物のポイントをどうしたらいいのかという話もした。あっという間に3時間近く経過して本家に行く時間が無くなり、もうこれでいいだろうということになって帰った。
 これで、この窯を訪ねる理由ができたし、これはおもしろいことになるなと思った。数ヶ月後に電話して、早速行って、注文していった。
 私たちは蕎麦屋の知り合いが多いのだが、いちばん親しい松本の蕎麦屋さんがずいぶん昔の瀬戸の焼き物を使っていた。このお蕎麦屋が使うような物は今の瀬戸本業窯ではできないので、つくってくれるところは無いだろうか?と盛んに私に言うものだから、見本をくださいと言うと、俗に言う瀬戸小皿という3寸5分くらいの小さな皿を渡された。縁が折り返し口になっていて、なかなかしっかりしている。この小皿を雅之さんに持って行ってつくってもらった。
 あっという間に上手につくり、いくらでもつくれるという。そこでさらに注文をして、昔ながらの鉢や平坦なかたちの石皿も注文。これらもまた、とても上手に出来上がってきた。
 ならばと、ご飯茶碗の女椀をつくってもらおうと、瀬戸の古い見本を探しに高山の骨董店を歩いていた。すると、型で抜いたような円錐形のかたちの昭和前期の瀬戸本業出のご飯茶碗に運良く出合った。使い込まれていて、とても風情がいい。この碗を買って見せたところ、これはとても難しいと雅之さん。見込み(器の底)が平坦になっているからだという。瀬戸の道具ではこの平坦をきちっとつくるのがとても難しいのだという。
 この骨董品はかつて瀬戸物磁器の飯碗のかたちをそのままに、陶器に置き換えてつくれという注文があったからつくったものだろうと。当時の瀬戸には腕のいい職人がたくさんいたからできたのだろうと雅之さん。彼に何度か頼んでいるうちに、見本とそっくりの物が出来た。本当に上手な陶工だなと感心し、もう少し大きな物も欲しいと、そのかたちのまま大きな物もつくってもらった。
 他にも男が使う大きな碗「男碗」。「男碗」の原型となった小さな碗「女碗」、瀬戸小皿を少し大きくした物、角湯呑みという角型の湯呑み、釉薬を掛けていない蕎麦猪口などを注文。それらが酸化炎で焼かれてクリーム色のいい色合いで出来てきた。
 しかし、この角湯呑みは骨格がどうもかっちりとしすぎている。それはおそらく水野半次郎さんが古い瀬戸の香炉、線香立てのかたちを模してつくったからだろう。口が分厚くて、飲みやすさのことを全然考えていない。これはよくないなと、本業窯の物を真似るのもどうかとも思い、これを改良すればコピーしたとは言われないだろうと、高台の幅と縁のつくりを内側に返すような、飲みやすいかたちにした。雅之さんの腕がよかったということもあって、これがわりと人気が出て、あちこちで評判となった。
 ほかにも瀬戸で昔からつくられている磁器の鉢も復刻してもらった。6寸ぐらいの丸い鉢なのだが、腰がやわらかく、丸みを帯び、縁が丸縁(まるぶち)になっているのがとてもいい。また、本家の方ではつくらなくなった片口も少し改良することに。円錐型なのだが、縁がしっかりしていていいかたちだ。こういった物の再現をどんどんはかっていったのだ。

角湯呑み。以下、水野雅之さんに改良を加えつつ、発注した昔ながらの瀬戸の焼き物

左が女碗、右が男碗

切立片口

6寸の深皿。折り返し口がなかなかいい

ぐい呑み

嫌な物を注文する見識の無い業者

 最近はギャラリーやカタカナの名前のショップが私たちのホームページを見て、この窯を訪ね、直接注文するようになってきた。彼らの注文に水野雅之さんも気安く応じた。
 それらの注文品のひとつとして馬の目皿をつくるようになった。このつくりがとても粗いことを私は危惧した。馬の目皿の絵付けは訓練度が高くないといけない。いくらつくりが上手でも、常に描いていないと筆が運ばず、もたもたと絵付けとなる。雅之さんの馬の目皿は嫌な物として目に映った。私はこれを辞めるように言うと、よく売れていて注文が多い物だと雅之さん。売れているからいいというのは誤った考えである。間違った物を間違って解釈してつくっていくと、素材のよさを壊してしまうと忠告した。
 絵を描くのはおもしろいと彼は言うが、これは魔力に取りつかれているからだ。鈴木繁男さんはよくこう口にしていた。いったん筆を握って、器物に描かれて焼かれ、それが売れると、人間は舞い上がってしまうものと戒めていた。
 民藝の美の視点がわからない者が安易に注文し、それを雅之さんのように軽々しく受けてしまう陶工も多い。この傾向はよくないことだ。
 雅之さんは現在、40代後半の年齢になったが、今の職人のなかでも優れた才能をもっていることは確かだ。このまま放っていくわけにはいかない。雅之さんには再び私たちのオリジナル製品の制作をしてもらおうと思った。
 雅之さんは、今後、いろいろな人が近づいてくるだろう。しかし、自分の仕事をきちんとやっていける方向の人たちとだけ付き合うべきだし、私が苦労してつくってもらったものはオリジナルとして尊重してもらいたい。どこにでもその物を出さないでほしい。そういう信頼関係を復活させて新たな仕事に取り組まないと、彼のような優れた陶工は埋没してしまう。未来も語れなくなる。
 瀬戸本業が庶民に対して優れた良品を大量に生産してきた方向を維持していきたい。そのためには、水野雅之さんの一里塚窯を支援しなくてはいけないし、この窯の跡継ぎをそろそろ考えていかないといけない。瀬戸伝来のつくりを受けとめて、その通りにつくれる人をそうはいないからだ。

瀬戸小皿の蕎麦屋型

黄瀬戸の織部釉挿し

3.5寸の平皿。中央に印判をした上に織部釉を重ねた

白がきれいな丸鉢

瀬戸の伝統的な石皿を再現

焼成中に思いもかけない錆色になった瀬戸黒の片口