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Kuno×Kunoの手仕事良品

復活した森 新緑さんの竹細工

復活した森 新緑さんの竹細工

2014年1月29日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

九州人の気質

 九州の人たちはわりと諦めが早い気質をもつ人達が多い。熱しやすく、冷めやすい。仕事が思うにならないと、きっぱり辞めてしまう場合がある。いったん辞めようと心に決めたら、翌日には辞めてしまうのだ。九州を40年以上、訪ね歩いてきたが、九州人の仕事の辞め方は他の地域に比べて早いように感じている。  

 

 竹細工の仕事は日当計算したら最下層の収入しかない。そのため、土木作業などまだ割のいい仕事に魅力を感じると、竹細工の仕事をさっさと辞めてしまうことがあった。その状況が昭和40年代後半からずっと続いてきて、だんだん職人が減ってきてしまった。私がこの仕事に入ったときは、鹿児島県の南薩地方には600人近い竹細工のつくり手がいた。ところが今は皆無に近い。1人、2人にまで減ってしまった。この実情には本当に寂しい思いがする。

 

 近年、竹細工を志す若い人も出てきているけれど、どうしても一般の人が手を出しにくい、工芸作品的な価格になってしまう。しかし、九州の人たちにとっては身近で当たり前のように使っている日用品に、そんな高い値段を付けても絶対に売れない。そのため、「青物細工」と俗にいう竹細工の実用品をつくる人たちは生活が成り立たず、仕事を辞めざるをえない。

洗練された竹カゴ

 私は大分県の小鹿田によく出かけるが、小鹿田がある日田市の周辺にも竹細工があると聞いていたので、約40年前にはずいぶん探し回ったものだった。そのときに大分県の玖珠町(くすまち)や九重町(くじゅうまち)から日田にかけてつくり手が点在していた。実用的な物をつくる方ばかりだった。そのつくり手のひとりで、たまたま知り合ったのが、森 新緑(しんろく)さんだった。父親の森 茂(しげる)さんと2人で日田市の中央街中に工房を構えていた。この親子の仕事場を訪ねて行ったのは38年前のことだ。森 茂さんは気安く話せるタイプの人だったが、ちょっと見るからに変わった偏屈な人でもあった。当時30代の新緑さんはおとなしく実直そうで、職人的よりも勤め人というような人だった。彼らの仕事はとてもていねいで、製品が洗練さを帯びていたのは、竹細工の指導所があり、全国随一の竹細工の産地である別府が近くに控え、その技巧的で洗練的なつくり影響を受けていたからだろう。森さん親子の工房で見る竹細工はきれいな仕上がりのものばかりだった。実用的な物なのに関わらず、モダンな印象を受ける。それが製品の特徴だった。九州の竹細工をすべて並べてみると、それぞれ特徴があるのだが、大分の竹細工はちょっと垢抜けた感じがある。とくに、森さんがつくる物は見た目もきれいで、クラフト的な部分があった。

ナバテボに惹かれる

 森さんの工房に通うようになって最初に眼が惹かれたのはナバテボというカゴだった。もともとは40年ほど前、九州じゅうの竹細工の産地を熟知する、福岡の民俗学者、故・野間吉夫さんの紹介で日本民藝館展に出品されていた。日田とは書かれず「大分・ナバテボ」という名で出品されていた。野間さんは九州の産地についての原稿を、雑誌「民藝」や「民藝手帖」に投稿していた。そのため、どこにどんな竹細工があるかは、当時から情報が流れていたのだった。


 私はこのカゴがどうしても欲しくて大分県内を廻ったが、なかなか見つからず、小鹿田で知り合った地元の陶器販売店の方がこのカゴを車の中に入れているのを見つけた。なんと日田市内の町中でつくられているというではないか。その情報をもとにつくり手を探り当て知り合ったのが森さんだった。


 ナバとは日田の言葉で、椎茸をはじめとするキノコ類のこと。テボはカゴの意味。つまり、ナバテボとはキノコを収穫して運ぶためのカゴである。腰に付けたり、背負ったりするために、片側が体に密着するよう平面になっていて、もう片側が膨らんだ形をしている。カゴはすべて型に入れず、円形に編むのだが、それを強烈な力で曲げて片側を平面にする。これはなかなか技術的に難しいことだが、それを森さんはいとも簡単につくられていた。

 

 また、その編み方も網代編みといって竹ヒゴを厚く細く巻き上げていく製法。その編み目は菱形に見えて、とても見栄えがよい。

 森 茂さんは、こんな物をつくるのはたやすい、このかたちは自分で考えたと言われた。そして、自分のカゴがいかに優れているか強調しているのが印象的だった。茂さんはそう自慢するが、きっと地域で伝わってきたかたちなのかもしれないとも考えた。

 

 ナバテボ以外にもそれなりに選べる物があって、どれもつくりがきれいだった。しかし、当時の私は民藝の基本的なよさをきちんと吸収していなかったため、自然性や素朴感がないとしか眼に映らなかった。

森さん親子との出会いはこのナバテボがきっかけだった。
このナバテボの小さなタイプが日本民藝館展に出品されていて、雑誌民藝に写真も掲載された。
このカゴがどうしても欲しかったものだから森さんのもとを訪ねたのだった。
当時、30代の森 新緑さんはその後、研鑽を積み重ね、父、茂さんを超すほどの職人となった。
写真は新緑さんが手がけた物。
細く分厚いヒゴ取りして網代編みしたことで一層美しく見え、

これは亡き茂さんのアイデアだそうだが、別府の竹づくりの影響が大きいであろう。
実用としての山行きカゴであった時代を思い浮かべると、
日本の地域にはなんと美しい時代があったのだろうと思いを馳せてしまう

地域独特の改良

 森さんの工房で念願のナバテボを手に入れて、他にも何かないかと探した。当時は三角形の独特なかたちをした三角米上げザルが工房にあった。これは福岡県八女地方でよくつくられていた物。3つの角のどこからも上げた米を取り出せた。おそらく八女地方の竹細工を使っている日田の人が同じような物をと、見本を携えて森さんに注文したのだろう。

 

 このように多くの竹細工製品は他の地方の物を真似してつくることができる、共通した技術を持っている。他の地方の物が入ってきて、地域の物と混じり合いながら、その地域に都合のよいかたちになって根ざしていく。そうして地域の仕事に役立つ便利な物へと改良されていくうちに、製品名も各地域独自のものになっていく。九州の竹細工の分布をみると、このようなユニークな展開がみられるのだ。

 

 使い手から、あるいは売り手からの意見をつくり手が聞きながら、その地域の人たちとのコミュニケーションによって、地域独特の物ができていく。これは九州の竹細工産地のあり方なのだ。

柄付きカゴ。昔からつくってきたもので、近所の方から求められたカゴだとか。
みかんの収穫や野菜の採り入れに用いたのだろうか。
台所用のカゴとして、物入れカゴとして、柄がついたことで便利なカゴになった。
使い手が自由に使い途を考えられるカゴである

オリジナル・メテボ

 それからしばらくして森さんの工房を再訪したら、立派な家になっていた。区画整理で立ち退きになった際、かなり広い土地を所有していたため、ほかに何か収入の道があるらしい。そのためだろうか、案外、のんきな仕事ぶりだった。そのうちに茂さんも仕事場には顔を出さなくなり、新緑さんがひとり仕事をしていた。新緑さんの年齢は小鹿田の柳瀬朝夫さんと同じだった。その当時から全国でも稀にみる若い竹細工師であり、とても大事な人だと私は思っていた。

 

 新緑さんがつくる物のほとんどは地域の農具などの実用品だったが、私たち都会人向けの仕事をアレンジしてもらった。

 

 そのアレンジした製品のなかで成功したのはメテボというカゴである。これは里芋をカゴのなかで洗うための実用品。泥だらけの里芋を中に入れて川底に転がしていくと、水流によって自然と泥が取れてきれいになった。川底に置くため、普通の編み方で用いる竹ヒゴ(現地でヘゴと呼ぶ)に比べると厚く、幅広で丈夫な孟宗竹を使う。

 

 ただしカゴの使い方は粗雑なため、ていねいな仕上がりではない。とにかく編めばよいという物。ただ、水がよく通らないといけないため、編み目が4つ目のカゴ目編みになっている。そして川底でも安定し、芋が外に出ないよう、裾が広がり、口はすぼまったかたちをしている。

 

 この大きな巾着のような造形が心に訴えるものがあったため、そのまま使い勝手のよい物に直せないかと新緑さんに提案した。素材である真竹のよい部分をすべて磨きという皮目を1枚剥いで、きれいな仕上がりにしてもらった。また、そのまま置いておくと安定しないため、足を取り付けてもらった。さらに縁の巻き方も粗雑ではなく、きっちりと巻いてもらった。  この改良を加えたメテボが大きな反響を呼んだ。24〜25年前に家庭画報が「再び民藝」というタイトルで民藝を再興しようという記事を組んだ際、このメテボが表紙になるくらい存在感が際立っていた。

改良をお願いしたメテボ。
独特の造形に感動し、これを何とか現代品に改良出来ないかと思案。
足を付け、また用いるヒゴをみがいてきれいに仕上げ、
肝心な縁づくりもしっかりとした巻きでお願いした。
特に縁は1年ものの幅広で厚いもので巻くため、
跳ね上がり亀裂が生じやすいが、
新緑さんの技術によって立派な製品になった
(撮影/久野恵一)

既存の物をアレンジ

 メテボの成功が新緑さんに、私のことを信用させるきっかけとなった。これ以降、それまで以上に、私の注文を積極的に受けてくれた。

 

 既存の物を変えていく場合、彼のような手仕事の職人はただ任せただけでは、新しい物をつくるということはできない。まず見本が無いといけないのだ。職人はその見本通りにつくるということから始める。自分で考えて変化をつけてつくっていくことはできないのだ。そのため脚を付けてくれとか、縁の巻きをこうしてくれなど、こちらから具体的にアドバイスをしていく必要がある。

 

 それがこういう人たちの生き方であり、専業形態として残ってきた大きな理由でもある。職人と作家の差というけれど、作家は編み方も含めて自分でさまざまなテクニックを擁しながら独創的な物をつくろうとする。ただ、それはあくまでも個人のものであり、特定の人を悦ばせるもの。個人が使うということよりも何よりも、自分の仕事を見つけようということだけだ。

 

 私たちが求めているのは、万人が使う物の平常無為の物であり、しかもそれが地域性を表した独特な造形がある物。そういう意味では森さんはこちらからのアドバイスはその通り聞いてくれるし、変な物をつくらずに、素直につくってくれる。そんなわけでずっと付き合ってこられた。

 

 3年前、秋月に店を出すときには、店内の照明のシェイドを新緑さんに竹カゴでつくってもらった。彼は嫌がらずに、言った通りにつくってくれてとてもよい物ができた。

 

 このようにさまざまなアイデアを出して既存の物を変えるというやり方で新緑さんとは付き合ってきた。日本民藝館展にも出品するようになって、だいぶ経ってから柳宗理さんの眼に留まって奨励賞を受賞したこともあった。本人もとても喜んでくれて家には表彰状が飾ってある。これにより知名度が上がってきてしまい、民藝店からの注文が新たにいくようになり、仕事が活性化する意味ではとてもよかったと思う。

仕事を辞める

 こうしてメテボや三角米上げザルなどを注文しながら毎年3回くらい、もやい工藝の竹製品の中心を成すような仕事を新緑さんはしてくれていた。物を送ることも簡単にやってくれる人だった。しかし、去年の今ごろ、急に新緑さんから電話がかかってきた。「久野さん、次はいつごろに来るか?」と。

 

 私は秋月に頻繁に行くため、また近々に寄りますよと答えると、いろいろ話したいことがあるという。会いに行くと、「もうわしはこの仕事を辞めるよ」と新緑さん。まだ72歳で仕事を辞めるなんて、竹細工ではまだまだ若すぎる。みんな80歳以上の人がつくっているのに、冗談じゃないと言うと、新緑さんはこっちこそ冗談じゃないと言い返してきた。もうこんなことをやっていてもお金にもたいしてならないと。

 

 気力がだんだん失せてきて、生活とか、人のためとかではなくて、自分自身のことを中心に考えていくと先行きが暗い。また、急激に力も衰えてきたのだろう。新緑さんは竹材を山へ行って自分で採らず、竹材屋から購入する。束で購入するのだが、その束を解いて仕事場に引きずりこまないといけない。長い竿を扱うのは大変で、あちこちにぶつかる。1本運ぶのに大変な労力を要するのだ。それがとてもつらくなったと新緑さん。そうなると九州の人の気質で、もう辞めてしまおうかということになる。実用品の物を使う人が少なくなってきているし、いくら久野さんが紹介して知名度が上がっても全国から注文が来るわけではない。何回か物を送ってもお金が入ってこないこともある。こんなことをやっていても自分がつらくなるばかりだからもう辞めますという。

 

 説得したが新緑さんは結局、仕事を辞めてしまった。彼には期待していただけに、私は非常につらかった。

シイタケテボ。
日田地方をはじめ大分県内はシイタケの栽培が盛ん。
シイタケを採取する際、背負ったり腰に取り付けたりして、収穫したシイタケをこの中に入れ、
満杯になると転がし、いくつも同じカゴを用意して山に入る。
素朴で素直な形と、また腰に取り付けたり、背負うために、
紐を通すため「力」という縦組に通した幅広の二本取りしたヒゴが存在感たっぷり。
このカゴは磨きをせず、灰で青竹の白ろう状態のものをはぎ取り、
さらに束子で擦って青竹の生き生きとした美しさを見せるようにと、私の注文でつくってもらった。
チリカゴにも物入れにもよいし、部屋の片隅に置いて長く使うことで味わいも出て、美しい生活空間をつくるであろう

1年後の復活

 それでも私はしつこい人間なので、たまに電話したり、「本当に辞めたの? 本当はこそこそ隠れてやっているんじゃないの?」と牽制したが、いや、もう辞めたと新緑さん。それでも日田に行けば、たまには顔を出して説得していた。そして昨年の10月、新緑さんからまた仕事を再開するからと電話がかかってきた。私も驚き、暮れに久しぶりに工房に寄ると、もうつくっているではないか。8点ほど製品が出来ていた。11月くらいから竹を取り寄せてつくり始めているとニヤニヤしていた。

 

 ブランクが1年ほどあったが、相変わらず仕事は上手だった。竹細工はブランクが2〜3年空くと、もうつくれなくなるのだ。たまたま1年くらいのブランクだから出来たのだ。

 

 「また、これからもやっていく?」と聞くと、「まあ、細々だけど、家のなかに居てもすることがないからやる」と新緑さん。そこはさすが伝統の職人である。手を動かしていたいという気持ちがあるのだろう。一日中テレビを観ていたり、ブラブラしていても、やっぱりおもしろくないからということもあったのかもしれない。

 

 復活した新緑さんに、もう仕事を辞めさせてはいけない。そのためにはこれからいろいろな注文をして、なんとか売りさばいて、この人の仕事を継続する道をつくらないといけないと使命感に駆られている。

 

 これは九州では本当に珍しいケースだ。いったん仕事を辞めた人がまた復活するという顛末がとても嬉しかった。新緑さんは今、73歳だからあと10年は仕事をしてもらいたいと願う。この10年の間に私たちは後継者をどういうふうに見つけるかということ。そういう人にこの仕事を続けさせて、かつては多く存在していたであろう、日田地域独特の竹製品をもう一度見つめ直していきたい。この周辺独特のスタイル、造形的に際立った物を選び、この仕事が新緑さんを通じて次の世代に伝わり、日田地域独特の文化を継続させていく手立ての第1弾にしないといけない。意気をもって新緑さんに接して、この人の仕事を取り上げていこうと私たちは決意している。

新緑さんらしいザル。縁がしっかり巻かれている