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Kuno×Kunoの手仕事良品

及川隆二さんのこと

及川隆二さんのこと

2014年4月30日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

 今までこの連載記事では制作者に視点をあててきました。それでまた私とつながりのあるベテランのつくり手たちのことについてはほぼ語り尽くしました。これからは若いつくり手とお世話になった方々について紹介していくことにします。まずは、盛岡の民藝店「光原社(こうげんしゃ)」現社長の及川隆二(おいかわりゅうじ)さんとの出会いと交流について話したい。私の生涯かけての仕事を通じて、強い絆で結ばれている及川さんとは、これからも店を経営する同人としてたいせつな仲間だ。いわば、よき伴侶だと彼のことを思っている

昭和54年(1979年)に新宿「八雲」で私の結婚披露会があった。そのときに出席くださった及川隆二さん

東北に名店あり

 かつて会津若松に加藤茂吉さんという、あけび蔓の編組製品づくりの名人がいた。戦後間もなく彼は野沢温泉で製法を学び、郷里の会津若松で工房をもった。そのご評判を呼び、その頃数多くあった東京の民藝店をはじめ、地元のお土産品やも彼の製品を欲しがり、工房を訪ねるのだが、みんな前金を納めて注文した。ところが、加藤さんは代金を受け取っているのに、物を送らないというクセの悪い人だった。どの店も困り、彼の悪評を口にして、私もその状況がわかっていたので警戒しつつも、加藤さんのもとを訪ねていろいろな話しをした。彼いわく、当時の東京の民藝店はろくな店がないよとのことだった。しかし、東北にある光原社という店は経営者も若く、素晴しいよという。私はこのとき、はじめて光原社の名前を耳にした。

「べにや」さんでの展示会

  それからしばらくして渋谷の「べにや」さんで福岡県小石原焼、太田熊雄さん(この連載記事vol.56を参照)の会を催すことになった。私の学生時代の知り合いが太田さんの窯で修行していた関係で、この仕事に入って間もなく小石原を訪ねた。それから太田さんとは親しくなり、窯出しを楽しみにしては足を運ぶようになった。当時、太田さんは年に8回くらい登り窯を焚いていた。私はまだ店を構えていなかったのでこの焼き物の卸しをしようと考え、東京の民藝店を回ったが、ほとんどの店に断られた。小石原焼は自分のところでも取り寄せられるからと。ところが「べにや」さんは親切に応じてくれ、自分の店は荒物(竹のカゴなどの編組品)が多く、しかもそれらは東北地方の物が中心だという。焼き物の品揃えはとても弱く、とくに九州の焼き物はつてがないので仕入れていなくて、卸先からもろくなものが入ってこない。そう思っていて矢先にあなたが来たから、手始めにあなたが小石原から持って来る物を欲しいし、それほど太田さんと親しいのなら展示会をやってみたらどうかという話しになった。願ってもないことだったので喜んだ。しかし、お金がなかったので、「べにや」さんからはその都度、20〜30万円を前金でいただいて、窯出しへと向かい、仕入れができた。こうして5度ほど窯出しに行き、太田熊雄さんの会を「べにや」さんで始めた。この店がこのような会を催すと聞いた東京中の民藝店は驚き、観に来てくれた。たまたま秋の日本民藝館展と開催時期が重なったことで、各地からの来訪者も多かった。ただ残念なながら売り上げはあまりよくなかった。「べにや」さんは私の尽力に報いることができずに申し訳なかったと言い、労をねぎらう意味もあって、東北に配達があるから一緒に行かないかと誘ってくれた。光原社の経営者兄弟が展示会に立ち寄り、ずいぶん大きな物をたくさん買ってくれ、その配達に行くのだと。当時は運送の状況が悪く、このような大きな焼き物を送ると途中で割られてしまうのが関の山だった。「べにや」さんは配達がてら、東北を回って仕入れもしたいという。私は彼らに付いていくことにした。

異質の民藝店へ

 当時はまだ東北自動車道がなかった時代なので、夜出発して朝方に仙台に着いた。仙台にも「光原社」はあった。そのとき「こうげんしゃ」の漢字の書き方(それまで高原舎とでも書くのかなと思っていた)、さらには宮沢賢治が名付けたという店名の由来を教えてもらった。珍しい店名だとその時、思った。仙台の店は及川隆二さんのお兄さんが経営していた。お兄さんが光原社の社長なのだが、仙台の支店にいて隆二さんは専務として盛岡の本店にいる。おもしろい関係だなと思った。 そして、この日の午後、盛岡に着き、太田熊雄さんの大きな物を届けた。光原社はそれまで私が知っていた東京の民藝店とは違って、趣きがあるし、建物もしっかりとしているし、なんといっても風情がとてもある。店内に入ると、美しい展示と素晴らしい空間構成に魅せられた。置いてある物が迫力があるよう眼に映った。さらに、私が観たことのない民藝品がたくさんあり、とくに岩手県を代表する鉄器や漆器、近くでつくられる箕(み)やケラなどが所狭しと飾られていた。空間が大きいし、見栄えがよかったので驚いた。店内には女性の店員さんが何人かいたのだが、今でもお付き合いがある吉田綾子さんをはじめ、なんて美しい女性が社員として働いているのだろうとびっくりした。デニムの生地で仕立てた制服も洒落ていた。そこに、専務の及川隆二さんが出てきて、あまりにも若い人だったので、また驚いた。すぐに奥さんも出てきたのだが、美男美女の二人の醸し出す雰囲気で、なんて格の高い民藝店だろうと感じた。土臭い顔のおっさんが店頭に立つ東京の店よりも、地方の方がよほど洗練されている人がいるなと感じ入った。

 物腰がやわらかく、説明もていねいな及川さんは敷地内にできたばかりのカフェ「可否館」へと案内してくれた。ここでは奥さんが淹れたコーヒーが小鹿田焼の柳瀬朝夫のつくるコーヒーカップで運ばれてきた。当時、まだ小鹿田焼のことをよく知らなかったので、思わず「舩木研児(ふなきけんじ)さんのカップを使っているんですね」と口にしてしまった。及川さんは「いや、これは小鹿田焼ですよ」と苦笑。それまで小石原焼しか知らなかったから、小鹿田焼はこんなものもつくるのかと感心した。及川さんと話していると、他の人とは異なる方向性をもった人であるとすぐにわかり、夫妻の人となりに憧れの気持ちを抱いた。そして、こういう民藝店があるのかと知った。敷地も広いし、裏側には北上川が流れ、独立した店舗が配され、それぞれに風情がある。光原社を観て、それまでの民藝店への見方が一変した。実は以前から、このような方向が本来の民藝店のありかたではないかと思ってはいた。その方向が具体的に現れたものだから、ぼんやりとした理想をはっきりと認識できた気がする。そして、こういう人たちとつながっていきたいと願った。ここで学ぶことはたくさんあると思ったからだ。それですぐに礼状を出した。私は記憶にないのだが、その手紙には「次はひとりで行きます」と書いてあったと及川さんが教えてくれた。

ひとりで再訪

 半年後、ひとりで車を運転して東北を旅した。はじめに青森まで行き、その帰りに盛岡に寄り、光原社を再訪した。いきなり訪ねたから及川さんは驚いていたが、私の礼状をきちんと覚えていて、非常に親切に迎えてくれた。その際、私が東北で集めてきたものを及川さんに見せると、何やら感心している様子だった。自分たちは東北にいながら、各地にはこんなにいろいろな工藝品があり、しかも知らない物がほとんどだと。これをぜひうちの店で置かせてくれないかと言う。もっとも、私はこのとき店を持っていなかったし、「べにや」さんから仕入れ前金をもらって動いていたものだから、「べにや」さんに回す物と分けて、光原社にも少し置いておこうということにした。その場で及川さんからは現金をいただき、帰りの交通費くらいはまかなえそうと、嬉しかった。それで、私は山形の月山(がっさん)の山ブドウの手提げカゴを開発して間もないころで、車のなかにたまたま何個か積んでいたので、そのカゴもと見せた。すると、及川さんの奥さんが「持ち手が弱い。縁がしっかりしていない」と指摘された。私は悔しくて憤慨し、このカゴを納めるのはやめた。当時、青森で洗練された山ブドウのカゴが出回っていたが、月山の物の方がよいのは明らかだった。
 その次に訪問したときに、「きのうはどこに泊まられましたか?」と及川さんに尋ねられたので、「車のなかで寝ました」と答えた。当時の私は車中泊で旅するのが当たり前だったのだ。及川さんは驚き、「よかったら、うちに泊まりませんか?」と言われた。夕方になり、ご馳走になり、言葉に甘えて、光原社の茶の間に泊めてもらった。朝ご飯は、家を建築中の及川夫妻が仮住まいするアパートでいただいた。とても親切にされて嬉しかった。ずっと及川さんと話しをして、私の目指す方向性から今何をしようとしているか、仔細に聞いてくれ、意気を感じてくれたらしい。
 ぜひとも、これからお役にたちたいと及川さんは励ましてくれた。

光原社での展示会

 それから間もなくして、「もやい工藝」の店を北鎌倉で出した。日本民藝館展の開催月に及川隆二さんがお兄さんと一緒に店を訪ねてくれた。3坪の小さな店だったから、二人に見せるのは恥ずかしかった。二人は店内をじっくり観られて買い物もしてくれた。帰られたあと、及川さんから礼状が届いた。それには「ショックを受けた。若いあなたが小さな店で頑張っておられて、しかも置いてある物は超一級品だ。とても自分たちの眼にはかなわないもので、店に置きたいというよりも、自分が欲しい物ばかりだった。その現実を観て、心が洗われた」と書いてあった。この言葉は逆に皮肉なのかなと勘ぐったが、このことで及川さんとは急激に近づいていった。
 当時、私は年に4回くらいは東北を旅していた。会津に友人がいたり、月山など泊まれる場所が何カ所かあった。東北行では必ず盛岡に寄り、光原社で及川さんの話を聞いては泊めてもらったりしていた。そのうちに及川さんが自分の家を建てたからと来てくださいと誘われた。非常にシンプルな、私たちが好きな家で、シェイカー教徒の家に憧れて造ったものだという。壁には漆喰を塗り、木材には栗を用いていた。これからは年に何回かは及川さんの家に泊まるようになり、どんどん親しくなっていった。数年後には、「久野さんがそんなに九州の物が得意ならば、うちで九州の民窯展をやりませんか?」と言われた。仙台の店では山陰の民窯展と出雲の手仕事展をやりましょうと、2つの展示会を同時におこなったこともあった。これ以降、毎年光原社で展示会を催すようになり、私はずいぶん助かった。

 この九州民窯展は昭和55年(1980年)のことなのだが、それまで大きな展示会は出雲の民藝館で2度ほどカゴ・ザルの会をおこなったくらいだった。光原社での展示会は1週間ほどの期間なのだが、その間、ずっと及川さんの家に寝泊まりして一緒に過ごした。とても気遣いしてくれて、彼はお酒を飲むのが好きだから、夜は盛んに勧めてくれた。しかし、当時の私はお酒がほとんど飲めず、苦痛だった。また、及川さんが歌うのも好きで、カラオケが流行だすと、カラオケに連れて行ってくれた。私は自分が歌うのも、人の歌を聴くのも嫌だったので、こんなことが楽しいというのは嫌いだと平然と口に出してしまった。
 昭和55年の前後なのだが、倉敷ガラスの小谷真三さんのガラス工房を敷地内に建てることを先代の及川四郎さんが約束していたと及川さんが言っていた。それで工房を造るのに小谷さんに来てもらうことになったという。その前に小谷さんが自分で造った高山郊外、飛騨古川にある工房を及川さんと観に行った。この二人での旅や共に過ごした時間により、いっそうと親密な仲になっていった。

昭和62年(1987年)、鎌倉佐助にもやい工藝が移転したときのお祝い会にて。
松本民藝家具の創設者、池田三四郎さん(左)と及川隆二さん(右)

もやい工藝ができて10周年のときに、及川さんや蟻川紘直さんをはじめ、
小鹿田焼の坂本茂木さん、倉敷ガラスの小谷真三さんなど、つながりのある民藝関係者で箱根に行ったときの写真。

そして友人となる

 私が30歳の誕生日を迎えたとき、光原社にいた。ちょうど盛岡に行っていて、及川さんは居酒屋に連れて行ってくれた。「山小屋」という店だった。炭が焚かれる七輪を前にテレビを眺めていたら、王貞治が755本のホームランを打ち、ハンク・アーロンの世界記録に並んだ瞬間が映し出されていた。8月31日、この日は記念すべき日だと及川さん。私は「今日は俺の誕生日だ」とつい言ってしまった。及川さんは「もう30歳になったの?」と驚いた。まだ20代だと思っていたらしい。そして「今日からあなたは中年だ」と言われた。いや、俺はまだ中年じゃないと否定すると、「久野さん30歳はもう中年なんですよ。これから体などが変調をきたすから、くれぐれも自愛して自分自身をたいせつにしながらいかなきゃいけませんよ」と及川さん。いわば兄貴分のような感じで及川さんは接してくれた。
 友人となった及川さんと私は互いにいろいろなつくり手を紹介し合い、光原社でそのつくり手の展示会を催すようになっていく。及川さんからはホームスパンの蟻川紘直(ひろなお)さん(この連載記事のvol.34を参照)を紹介してもらった。この3人で旅をして佐渡島の裂き織りに関わったことがあった。そうしてつきあいはさらに深まっていった。及川さんとは一緒に岩手県を中心に、手仕事の発掘をした。私は車を運転できたし、物を集めるのが得意だったし、彼は仕入れのため大量注文をする際の資金的なバックアップをしてくれた。新しい注文をしても彼がフォローしてくれるし、旅費もすべて面倒みてくれた。そういう思いやりが及川さんにはあった。そして、光原社ともやい工藝は今の工藝を守っていなかくてはと一致団結していったのである。

及川隆二さんの娘さんの結婚披露宴に呼ばれたときの写真。右が隆二さんの奥さん

今から14年前、光原社で小鹿田焼の展示会を催したときの様子

小鹿田焼の展示会の夜のパーティ。光原社の店員さんたちと交流

1980年、岩手県久慈市の八木澤由蔵さんが
日本民藝館展の館賞を受賞したので(久野恵一が出品)、
及川さん(右前)、蟻川さんとともに賞状を渡しに訪問した

バックアップ

 光原社は現代的な物にも眼がいくところがあって、柳宗理さんが日本民藝館の館長になったときも、すぐに応援すると及川さんは表明していた。また印象に強く残っているのは、鈴木繁男さんの家を訪れたときのこと。及川兄弟と浜松での芹沢C介展を観に行こうとなって、浜松駅まで兄弟を迎えに行き、その足で鈴木繁男さんの家に行った。鈴木繁男さんは戦前、光原社に滞在して制作活動をしていたこともあり、つながりがとても強かった。それで、繁男さんの家へと及川兄弟が導いてくれたのだった。
 また、光原社は芹沢C介との縁が非常に深く、芹沢さんについて詳しく教えてもらった。このように、光原社は私がつながりのない世界の人をずいぶん教えてもらったり紹介してもらった。私は光原社が苦手としている民藝品の部分を供給したり、教えたり、助言したりしてきた。40余年間にわたって深いつながりでずっとよい関係が続き、何かあると支援してくれたり、商品を探索するときも同行してもらった。もやい工藝が現在の鎌倉佐助に移転したとき、お祝いとして、2つのショーケースを贈ってくれた。ここで店を開いて27年間、このショーケースは不動の位置に据えて、商品の陳列に役立っている。こんな立派な物をいただけたのも、私の店にとっては大きなことだった。

 日本中に民藝店はあるけれど、もっとも信頼を置けて共に新しい民藝の道を進んでいけるのは盛岡の光原社のみである。未来社会を考え、現代の民藝をどうしていくかという社会活動に共感し、支えてくれているし、何より及川さんは物が大好きである。近刊の「民藝の教科書」最終刊(グラフィック社)では及川邸を取材している。誠実さが伝わる家で、健全な住まいかたをみると、いかに民藝に彼が生きてきたかがよくわかる。彼は民藝に生きて50年、私は40数年だが、先輩・後輩として共に新しき健全な民藝を歩んできた同志だと思っている。
光原社から贈られた陳列棚。もやい工藝店内の中心的な存在