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隠岐國風土記

風土を奏でる(後)

風土を奏でる(後)

2009年1月5日
語り手:田中浩司

  初めての合わせの後に、「どうだ、楽しいだろ?」と、ドラムのマコさん。ちびっ子たちにレスリング(「ちびレス」)を教えたりしていて、「おまえも子供ができたら、わしがレスリングおしえっけん」と言われている。いないけれど、自分の子供がレスリング…なんてするのだろうか?この島にひとつの高校・隠岐島前高校は伝統的にレスリング部が強い。なんでも、昔は手こぎで船を漕いでいたから隠岐のもんは腕力が強くなり、レスリングが強くなった、というかなり怪しい説明があるが、相撲が盛んな地だからではないかと思う。
 ビアガーデンではベンチャーズの他に、美容師のよっちゃんや合銀のやっこさん、それに漁協のお姉さんでアン・ルイス(なぜか、アン・ルイスが定着している)もカバーし、最後には台湾・モンゴル・韓国からのインターン生も含めて「隠岐の風」というご当地ソングを歌った。健作さんは毎年ベンチャーズをカバーして出ているけども、今年はフルバンドということもあり、そこそこ盛り上がった様子。やはり音楽好きで「おらっち(俺たち)バンド」を組んでいた役場の大江さんが「よかったわい」と言ってくれた。夏が過ぎて、「じゃあ」と脱退できるかと思いきや、秋には保健福祉施設「ひまわり」でのボランティア音楽祭りに参加。若手介護士のみなさんをボーカルに迎えてのライブとなった。「ひまわり」のすぐ近くに住んでいるけれど(その名も「ひまわり団地」)、このライブで初めて中まで入って、働いている人たちの顔がわかるようになった。ベンチャーズなどをカバーし、「ひまわり」の歌姫みどりさんと三味線グループ(と、今巷で話題のスコップ三味線)と一緒に岸千恵子の「千恵子よされ」。
このバンド、困ったことにジャンルにこだわりがなく、ベンチャーズからロックにフォーク、ラップに演歌までなんでもやってしまう。その昔、フェリーが泊まっていた海士港の待合室で海士町史上初となるヘビメタの練習をしていたら、対岸の西ノ島から苦情が来たという伝説的エピソードまである(ちょい悪気味が凄くロック!)。ちなみに、対岸の西ノ島まで一番速い船でも5分はかかるんだけど。キャンセルになかったから良かったものの、今回の音楽祭では漁労長が北島三郎と鳥羽一郎を歌うことになっていて、危くカバーさせられるところだった。もっとも、お客さん次第では演歌の方が盛り上がるかも知れないし、一応自己満足に終わらないスベらない選曲が考えられている。
バンド演奏を終えると、最後は「ひまわり」にちなんでスマップの「世界に一つだけの花」をバンド、大正琴、和太鼓、三味線、コーラス、チェロなど、イベントに参加した音楽グループ全体による(ちょっと無理な)合奏。スタッフも含めると人口の約10%の200人くらいが集まる一大イベントになっていた。あ、そうそう。島前高校の女の子たちが有志ボランティアで、徹夜してケーキやお菓子を作ってくれていたことも書き加えておかないと。
「ひまわり」で音楽祭が開かれるのは今回が初めて。どういう風の吹き回しだろう、と思っていたところ、直会(通常は神社参拝の後の儀礼のことだが、この島では打ち上げの意味でよく使われる)の席で局長の片桐さん(コブクロを熱唱)がふと漏らした。片桐さんも顔を知っていて少し話したことがあるくらいのつきあいの人で、カナダ人のデリックがいた頃に知り合い、しばらくファミリーネームがわからず、カズさんと名前で呼んでいた。「前に、崎小学校でピアノ弾いている写真の載った記事書いてたでしょ?それを読んだ前の局長が、やっぱり音楽が好きで、崎小学校の雰囲気も好きでね。これからの社協(社会福祉協議会)は田中君と組まなきゃいけないって言いながら、定年で辞めていったんだよ」

 ちょっと意外な伏線だった。『隠岐諸島通信』という隠岐地域のフリーペーパーに今から3年前に島で好きな場所について書いた記事のことだ。自分では忘れつつあった文章が地域の人の心に残っていて、それが音楽祭のひとつの伏線となっていた。崎小学校というのは、廃校になった木造の小学校で、そこにあるグランドピアノを弾きによく出かけていた。出かけていた、と書くのも、もうそこは面影もないくらい変わってしまったからで、変わったという話を聞いて以来一度も行っていない。過去は過去のままでいた方が幸せなこともある。『二十四の瞳』のロケができそうな小学校と言えば、想像してもらえるかもしれない。初めてなのに懐かしくなるような、そんな場所だった。
「あの、ピアノを弾かれるんですか?」と、普段は地元民にも滅多に話しかけないことで知られるスーパーくわもとの奥さんが話しかけてきてくれたのも、この記事がきっかけだった。「隠岐の静かな風景に、ピアノ。とても似合いますね」以来、時々奥さんは思いついたように、「このオリーブ油、イタリアの小さな会社のものなんだそうです。イタリアではこういう小さな産地のオリーブ油が好まれるそうですよ」とか、「アボガド食べますか?」と、話しかけてくれる。手仕事フォーラムのブログに最初に書いた塩辛は、この奥さんからもらったものだ。もともとは家庭科の先生とあって、食の話をするととても嬉しそうだ。なにより、イタリア料理好きという点で一致している。島のスーパーなんてたいしたことない、と思われるかもしれないが(基本的にそれは正しいのだが)、このスーパーには「どうしてこんなものを?」というようなイタリア食材が置かれているので、お気に入りだ。
 「来年もおるか?」と、聞かれる。「たぶん」としか答えない。「仲良くなっても、すぐみんないなくなっちまうからな」と、寂しそうにマコさんが言ったのがまだ耳に残っている。いつかは自分も去っていく。このバンドは音楽好きの島民のほとんどを巻き込んで、結成、再結成を繰り返してきたので、元メンバーだらけだ。島で生まれ育っていないのは、自分とムネちゃん(ギター)だけというメンバー構成。楽器だってちょっと年季が入っていて、今借りているキーボードは時々メンバーでご飯を食べに行く喫茶店の奥さんの旦那さんがバンドをしていたときに買ったもので、ローランドが初期に作ったものだし、ドラムセットも20年以上前のものだそうだ。そもそも、バンドメンバーも20代、30代、40代、50代と、なんと4世代バンド。音楽性も全然違う。仕事もバラバラで、音楽好きという以外に接点がない。
「そっが、いんだわ。わしもね、音楽するようになって、はじめてそういうつながりができたんだわ。メンバー紹介したが?そんときに田中さんが、嬉しいような照れたような笑い顔してたのを見てね。楽しそうにやっとるなぁ、と思ったわ」と、役場の職員で尺八吹きの田中さん。「来年はわしも歌うけん。松山千春、準備しといてごせよ」「地元のもんらと、一緒にやってる」ことが、思いの外、島の人たちに喜ばれていた。「田中さんが俺らがしらん、地元のもんらとしゃべってるのが、見てて良かったっすよ」と、マー君。「もう、すっかり島のもん」という訳ではないし、簡単に「Iターンと島のもん」の境界線は「ない」とも言えない(なんだかんだ言ってもそれはあるのだから)。 ただ、自分は両者の境界線上の5線譜をおたまじゃくしのように揺れ動いているだけなのだ。
「そりゃ、いつかは帰りますよ。それは来年かもしれないし、もっと先かもしれないけど」「でも、わかんないよ。夏になったら、人がいないんだ、ちょっと弾きにきてごせ、ってあいつら電話するかもしれない」と、片桐さん。東京生まれ、東京育ちの人だ。この人は隠岐が長いし、たぶん定住するんだろうけど、移住したものの短期間で人が去ってしまうことも少なくない。「そりゃまた迷惑な(笑)…でも、それ、あり得る」「でしょ?その時また来て、一緒にできるような関係が続いていったら、この島はもっと良くなるんじゃないの?」
 「あいつはどこにいったっけ?」「あれは松江におる」「あれもうまかったがなぁ」「あんときのライブはあいつがな」なんて、元メンバーの思い出話が時折でてくる。そんな思い出話にいつか自分が出てくることもあるのだろうか?音楽はただ、軽やかに流れていく。