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隠岐國風土記

「塩一トンの読書」と

「塩一トンの読書」と

2009年4月18日
語り手:田中浩司

 須賀敦子さんの著作に「塩一トンの読書」というエッセイがある。「塩を一トンなめてみなかれば、他者のことはわからない」と、イタリア人の義母が時折口にしていたことを回想しながら、本という他者の理解について書いたものだ。 料理に使う塩はほんの少し。それを一トンなめるには、とてつもない時間がかかる。しょっぱすぎたり、逆に弱すぎたりと、塩をなめるには労苦を伴う。他者も本も、それを理解するには時間がかかる。ある時理解したと思っていた他者も、時と共に違った表情を見せるもの。塩一トンをなめるように、他者を理解するには時間がかかるし、ひと時の印象で他者を理解することもできない。時間の経過とともに他者は表情を変えていく。そんなことを書いたエッセイだ。自分が読んだのは全集版に所収されたものだけれど、「塩一トンの読書」は、また単行本の書名としても使われている目を引く表現だ。 須賀さんのエッセイを読みながら、どちらかというと湿り気のあるイタリアの塩の数々を思い浮かべ、そしてより多くの塩の世界を栞のように本に差し込み、少し考えた。塩一トンをなめても、折々に表情を変えていく、他者や本という他者のように塩そのものを理解するためには塩一トン、いや、それよりももっと多くの塩をなめる必要があるであろうことを。

 もの作りという言葉には、どれくらいの含意があるのだろうか。ハイデガーはよく知られた道具論の中で、道具とは何かのために役立ち、機能するものとして扱われるもの、というようなことを書いている。そして、道具は、『存在と時間』では、ハンマーが例として差し出される道具は、道具連関という有用性のネットワークに位置付けられており、ハンマーは釘をたたくもの「として」現存在、つまり人間に立ち現れる。また、釘は壁に打ち込まれるもの「として」存在し、壁は家の一部をなすもの「として」存在し…という道具の果てのない連鎖が広がっている。 そうして考えたときに、もの=道具作りとは、道具連関の中に未だ道具ではないものを位置付ける、という作業のことであるはずだ。そして、それは塩というものについても例外ではない。普通、塩のことを道具とは呼ばない。けれど、ハイデガー的に考えるなら、素材を引き立てるものとして有用性を持つ立派な道具であるのだ。 ここでまた「塩一トンの読書」に帰り着く。道具としての塩を理解する途方もなさ、その差し出される世界の広大さに。おそらく、どんな産地・製法の塩でも、それを知る尽くすことはできない。それは他者を知り尽くすことができないように。少し口にしてわかったようなふりをすることはできるが、それでは素材を変えたらどうだろう、料理法を変えたらどうだろう、作る人を変えたらどうだろう。そう考えるだけで、どうも行き詰まってしまう。ひとつの塩だけでもそうなら、日本の、世界の塩を理解することはとてもできそうにない、というのが知らない塩は必ず買って試す自分の考えだ。海塩、岩塩、湖塩などすべての塩の源である海もそのすべて解明されていないように、塩の世界も海のようにまだまだ味わい尽くし、知り尽くすことができない未知の世界だ。

 つまり、塩もそれ自体、「他者」なのだ。たとえ、それを自分が作ったとしても、それは自分に属してはいない。一度手を離れた道具は、自分も知らないさまざまな用途の世界に向かって差し出されているからだ。だから、時にはまったく他者のように、自分に働きかけてくる場合があるのだ。自分の想像しない素材との組み合わせ、想像したこともない調理法で塩から働きかけられたとき、やはり、塩はそれ自体他者であり、簡単にはかりしれるものではないのだと思い直す。

 「それで、この塩の特長は何ですか?」と、よく聞かれることがある。これはなかなか答えるのが難しい。多くの場合、こうした問いかけで期待されている答えは、「素材を引き立てる」とか「辛いだけではない広がり」とかいったキャッチフレーズや類型化なのだ。人に置き換えた場合と同じで、「A型」「山羊座」「午年」といった表現と言えば、その底の浅さが理解してもらえるのではないかと思う。もちろん、そうはいっても「一応」の受け答えはするが、結局、答えは他者自身しか知らないのかもしれない。
 「塩一トンの読書」を読みながら、ふと、そんなことを考えていた。