手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

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隠岐國風土記

生産者

生産者

2009年10月14日
語り手:田中浩司

 「生産者」という言葉は、まるで明治初期の翻訳語のようにどこか手触りが悪く、体になじまない。自然を背景とした「食」と、「生産」という語の機械的な響きがそもそも不釣合いだ。あるいは知的労働に対する私の屈折が「生産者」という規定を拒んでいるだけのことかもしれないが、何れにしても「生産者」という言葉は好きではない。

 

それにしても、私もそのように紹介される「こだわりの生産者」というこの言葉。おそろしく陳腐な表現に思えるのだがどうだろうか。第一次産業では未だに80年代的消費社会論が妥当する。実用性(もの自体)から意味(ものがある暮らしぶり)という消費動向を踏まえた年代物の記号戦略が今更ながらにカタログに陳列されている。

 アイロニカルに、しかし、すぐ察知できるように、「食」をめぐるこうした動向の背後には、機械製品とほぼ同様の規格書が求められており、エクセルで文書処理されている。「あの会社の品質管理は凄い」と、耳にしたことがある。だが、その背後あるのは「生産者」との濃密な関係ではなく、近代社会に特徴的な文書処理による合理的官僚システムである。例えば、普通なら「目視」で通る規格書が、「なにをどういう風に見るのか」という形で細かく書き変えさせ、意識付けを行い、確認し、リスクヘッジしていく。それだけのことだ。それが業界で言う厳格さらしいが、それは企業における近代官僚制の浸透率の問題だ。当たり前だが、「こだわり」のポイントや生産者の顔写真を入れる欄まで既にフォーマットが決まっている。「生産者の声を届けます」というが、現実的には「生産者は文章が書けないので変わりに書きます」ということにすぎない。

 つい先日、田舎暮らしをテーマとした雑誌の取材を受けた。「田舎暮らし」というのは彼らの言葉であって、私のではない。それはともかく、ある食習慣に話が及んだときに、それまで黙っていたカメラマンがやや唐突に「それなら東京のメディアを使って広げるのが一番ですよ」と割り込んできた。「君はその方法がよくわかっていないようだから、教えてあげる」というように。取材には取材している人間の品性がよく表れる。別に取材の場面で議論する気はないので、「そうですね」と受け流しておいたが、いやしくも田舎暮らしを云々する人達が地域と表象の問題についてかくも鈍感なことに、再び落胆した。問題はむしろなぜメディアが東京に集中しているのか、ということであり、東京を通してしか見ることができない地方とはそもそも何なのかということだ。
 静かに「表象」をめぐる地域格差問題が浮上している。