手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

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隠岐國風土記

此岸の辺で

此岸の辺で

2010年6月16日
語り手:田中浩司

 彼岸志向が強い。ほとんど生まれつきと言っていいほどに。そんな自分が「地産地消」という耳慣れない言葉を知ったのは、隠岐に来てからのことだ。最初は「チサンチショウ」という言葉がどんな漢字なのかよくわからなかった。今でこそ地方ニュースをチェックするために新聞を読んでいるものの、大学時代は友人にニュースを要約してもらっていた。テレビも見なくなって久しい。メディアの権威のように言われていた時代もあったが、今はどうだろう。双方向メディアの発達によって、なんだか「固定電話」のように不便な機械になってしまった。それはともかく、つまり自分は日々のパンのことを考えるよりは、天上の葡萄酒のことを考えたい質の人間なのだ。だから、大学から還俗したばかり の自分が「チサンチョウ」をすぐ脳内変換できなくても、まぁ仕方ない。

 そんな自分が島に来てすぐの頃、役場の商品化会議に出席する機会があった。知らないことだらけなので話の内容が全部わかった訳ではないが、どうもこの島では「地産地消は(食糧自給政策的に)正しい」ということと「地産地消は(客観的に)美味しい」ということがほとんど同義になっているようだった。前者は生産・流通の問題、後者はマーケティングの問題だ。

ほんの数年前まで魚は境港に出荷したものを買い戻していたし、野菜も仕入れたものがほとんどだったらしい。今では漁協で土地の魚が買えるし、島の家庭菜園でとれた野菜も買えるようになった。これは生産・流通の変化だ。島のものが食べれるようになった。美味しい。なるほど。でも、それが比較・検討に基づく客観的判断なのか、本人の食習慣から来る主観的判断なのか曖昧だ。自分たち「以外」の人が美味しいと思うのか、価値があると思うのか。その場合の価値とはどんな価値なのか。どうも突き詰められて考えられてはいないようだった。

地産地消や地方食材に光が当たる一方で、自己満足に突き進む事例も少なくない。島のものづくりを手がけてきた役場の奥田さんともよく話すのは、「島のものを売ろうと思ったら、外のことを知ること。外にものを売ろうと思ったら、島のことを知ること」が必要ということだ。自分の知る限りこのバランスがとれていない島の産品は売れてない。売れてないということは、求められていないということだ。求められていないものを作って何か意味があるだろうか?それが芸術ならば、あるかもしれない。でも、産業としては無意味だ。さっさと市場から撤退した方が余計な選択肢が消えて、消費者のためになる。
 つくづく求められるというのはありがたいことだと思う。「この塩だけは手放したくない」と尊敬するシェフから求められ、「この塩に会いに来た」と熱烈に料理研究家の先生から求められ、此岸の辺で呼ばれている。感動という言葉は使い古されているけれど、本当に感動している人からは興奮した震えが伝わってくる。

 そうした言葉のいくつかが、この此岸にしばし我が身を留める杭になる。