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隠岐國風土記

社のそばで

社のそばで

2008年2月13日
語り手:田中浩司

 春には雄々しく桜が参道を彩る隠岐神社のすぐ横に、言われないと見落とすような小道がある。辿っていくと、途中使い古されたバスが自然に埋もれそうになりながら佇む。島で時折見かける廃車の姿。都会では朽ちた鉄塊もそう見られるものでもない。やがて道は二つに分かれ、左が隠岐神社社務所へ、右が海難者の慰霊碑へと続く。野放しの竹が生える山道を気をつけて登っていくと、視界が開けて、慰霊碑の入り口に到る。この海の慰霊碑には、隠岐神社に行くだけの観光客は決して知ることがない隠岐の島の近代史が刻まれ
ている。

 海難者の鎮魂碑のやや右側に建っている2つの碑は、ロシア人のための慰霊碑。日本海海戦の後、漂着した兵士を弔うために建てられたものだ。対馬と隠岐は対馬暖流でつながっており、海戦後は海流に乗って幾人かのロシア人兵が隠岐各島に漂着し、手厚く弔われた。終戦後、帝政ロシアから来た高級士官はロシア人の墓を視察し、「世界最高の人道」と感嘆したという。今日でも隠岐では「戦争が終わればともに人間同士」というヒューマニズムが語り継がれている。文化人類学者の吉田禎吾先生も指摘されているように、隠岐と対馬にはそれぞれ漁師が「水死体を拾うと縁起が良い」という民間信仰が残っており、このことはあのレヴィ=ストロースの注意も引いた。異人の亡骸もこうした民間信仰の中で受け入れられ、手厚く弔われたのだろうか。
 昨年は隠岐各島で慰霊碑を軸に日露交流の気運が高まり、ウラジオストック・ビエンナーレ参加やロシアからの国際交流員の隠岐来島などが重なった。今年に入ってからは、鳥取県境港から韓国を中継して、ウラジオストックまでの貨客船の就航が計画されていることが発表され、ますます隠岐とロシアが近くなっている。

露人の慰霊碑のことは、地元の郷土史家・滝中茂さんから3年前に伺い、何度か訪れたことがある。太平洋戦争の話はともかく、日露戦争の話をだいぶ聞くようになったのは隠岐に来てからだ。日露交流を積極的に進めている西ノ島の佐倉さんは、御祖父がやはり日露戦争に従軍されたという。その佐倉さんからは、松江の老舗和菓子屋が作ったレトロなお汁粉をお土産に頂いた。もともとは戦争に従軍した和菓子屋の主人が戦勝祈願のために作ったものだが、現在は両国の国旗を交えて親交の願いとするデザインに変わっている。また、島根県西部の浜田だったと思うが、こちらでもロシア人の海難者を救助した歴史がある。ちなみに、吉田先生の亡祖父・吉田孟子氏は日本海海戦当時、駆逐艦東雲の艦長であり、私が隠岐の露人の墓のことをお話しすると、先生も人ごとではないという感慨を抱かれたようだった。子供の時分に日露戦争の話を聞くような機会や意識がなかったのも確かだが、ロシアが近く感じるのはやはり地理のせいもあるのだろうか。

 毎日のように近くを走る諏訪湾という入り江がある。北分・中里・福井という3つの地区にまたがって広がる入り江だが、古墳の発掘など古代史に詳しい文化財保護委員の榊原信也さんによれば、古代には入り江の奥に隠岐國の国衙が置かれたかつての拠点港だった。日露戦争を語るときに欠かせない東郷平八郎と乃木希典もまたこの港に錨を下ろしている。ふたりが投錨した諏訪湾は、今日も寡黙に歴史を証しながら静かに波に揺れている。

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参考文献 吉田禎吾『宗教人類学』東京大学出版会