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隠岐國風土記

隠岐海峡を越えて

隠岐海峡を越えて

2008年9月5日
語り手:田中浩司

初めて隠岐海峡を渡ったのは、今から約10年前のこと。隠岐から神職免許を取りに来ていた知人の誘いで、初めて隠岐を訪れた。鹿児島県の屋久島を訪れた後、松江まで青春18切符を使って鈍行電車。松江から一畑バスで境港に着くと、まだ雪がちらついいていた。3月末頃だったと思う。
フェリーに乗ったら、寝るのが鉄則(というのは屋久島航路で学んだ)。読書ができるようになるまでには、かなりの慣れが必要となる。その日、初めての隠岐海峡は波が高く、境港を離れ、外洋に出ると窓から波しぶきすら見えた。屋久島航路もかなり揺れたので、たいして気にはしなかったが、途中の乗り換えのことが心配だったと思う。本土からの来客に「時間帯次第では乗り換えが必要」と言うと、ちょっとしたパニックになる。隠岐への窓口は時間帯で島根県側か鳥取県側に変わり、停泊地も変わるので、なかなか理解しにくい。フェリーの乗り換えというのは本土の人にはあまりに非日常的すぎて、難しそうなイメージもある。実際、自分も乗り換え時間が少ないので急ぐようにと、知人に言われていたので不安もあったと思う。当時はもちろん携帯などない。別の島に取り残されたら、大変だ。無事、当時の海士町の港・海士港に着いたときには、初めて一人で海外渡航を終えたかのような達成感(?)すらあった。
やや時化気味のフェリーが隠岐各島に着くと、船内放送で隠岐民謡が流れ、ボーイから下船や乗換えの案内がある。初渡航の際、帰省と思しき乗客一行が民謡に合わせて「おぉ、帰ってきたなぁ」と帰郷の感慨に浸っていたのがとても印象深く、今でも隠岐汽船で民謡を聞くと、当時のことを思い出し、自分もまた「わがとこ」(我が家)に帰ってきたという感じになる。疲れていると、民謡の音でようやく目を覚ますこともある。
ところで、隠岐汽船には汽笛にまつわる歴史がある。隠岐汽船は明治時代に隠岐と本土を結ぶ住民の定期航路として発足し、現在に至る。採算の問題から当時は反発が大きかったが、西ノ島の焼火神社の神主だった松浦斌(さかる)が私財を投げ打つ形で隠岐汽船の草創期を支えた。焼火神社は航海神として絶大な信仰を集めた神社でもあり、隠岐航路開拓の際に松浦自身があたかも守護神のように隠岐航路を守護する。その労苦のためか、若くして松浦はこの世を去るが、隠岐航路は今日まで途絶えることなく、島と本土を固く結んでいる。

焼火神社参道 母と 2007年初夏

隠岐汽船が隠岐島前内海に入り、焼火山の麓を航行するときには、必ず汽笛が鳴らされる。別府港入港の合図のようにも思われるがそうではない。この汽笛は隠岐航路を開拓した松浦斌と、焼火山の航海神への敬意の汽笛なのである。

就航時のように今も紙テープによる「お見送り」が行われる。船の見送り以上にせつないものはない。

隠岐汽船は幾百、幾千の別れを運んできたのだろう。2008年 夏 台湾へ帰国する留学生たちを見送る。