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隠岐國風土記

光と影の中で

光と影の中で

2008年10月12日
語り手:田中浩司

ものの見え方は、光と影の中で随分と変わってくる。そのことを最初に刻んだのは、舞台の上だったのかも知れない。高校時代は演劇部で光を当てたり、光に当たったりしていた。
スポットライトに付いている円形の鉄板に「ゼラ」と言われるカラーフィルムをセットして回すと、舞台の色彩をくるくると変化させることができる。設備の整ったホールではスポット、サス、ホリ、シーリングなどの照明の複合で色合いを決める。明るい場面では暖色系、暗い場面では寒色系と、環境文学、ネイチャーライティングで言う自然と心情との対応関係、「コレスポンデンス」が働いている。光が希望を、闇が絶望を象徴してきた歴史はおそらく拝火教と誤解されたゾロアスター教以前まで遡る。今でもハッピーエンドの映画が朝日で終わるのも、この象徴の長い歴史の続きなのだ。

写真に少し興味を持つようになってから読んだ本の中にこんな一節があった。「写真とは光と影の芸術である」と。なるほど。ふと見かけて立ち止まった奈良原一高の作品には、光も影も写し込まれていた。カメラは光と影を持つ、あらゆるものが写せそうな気がする。ただし、まったき光と、まったき影は除いて。

 

「人は死と太陽を直視することができない」という言葉がフィリップ・アリエスの史書に引用されていたけれども、おそらく同様に人はまったくの光も闇も見ることはできないのだ。いくらこの島に街燈が少なく、真っ暗闇で、田んぼの畦に落ちそうになっても、そこには蛍や遠い漁火や、田んぼの水に映る気まぐれな月や「20億光年の孤独」な星の光のかけらが少しはあるのだろう。そもそも、本当に真っ暗闇ならとっくに落ちている。

「スリランカもすごく暗いよ」と、酔った夜の帰り道、ふたりで畦に落ちそうになりながら歩くのを笑いながらサミ君が言った。「スリランカのおばぁちゃんの家に自転車でよく行ったんだけど、海士と同じでとにかく暗くて何にも見えないの。仕方なく、空の星をみながら走ってたんですよ」「空をみて走るなんて、船みたいだね」「そうですねぇ」

こう言ってはなんだが、この島は決して美しい島ではない。それは美しいものがないという意味ではなく、訪れた誰でもが一様に美しいと言うような島ではないという意味において。昨日、訪れた中央官庁の行動派の若い職員ともそんなことも話していた。「明日から友達が来るんですけど、どこに連れて行ったらいいか」「定番コースはダメでしょ?」「はい…。正直、がっかりでした」それがごく普通の感想というものだ。いつまでも離島ブーム時代のとってつけたような「観光地」に頼っていてはいけないはずだ。

最近、個人的に案内する人にはこう言っている。「気に入った場所で、好きなだけ過ごしてください。だぶん、それが一番いいですから」と。最後の一枚は自分が夕飯の買い物の帰り道で撮ったもの。島を訪れた人にも、こうした光と影で変わりゆく島を見せることができたら、島は別の顔を見せることだろう。

ところで、Sri Lanka。シンハラ語で光り輝く島という意味だそうだ。島と光。そして、影。すべてが相まって風土ができている。